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雑想 アーカイブ

2002年1月 6日

郷土愛

まず,私の嫌いなタイプの人間は,

自分の生まれ育った土地を卑下あるいは否定するヤツ
偏った,歪んだ郷土愛が突出して自分の郷土以外の土地をけなすヤツ
地方をステレオ・タイプ化するヤツ
東京至上主義者

である.

東京で一人暮らししたこともあったが,東京だからといって特別にどうということも思っていない.
私は常に"住めば都"と考えているし,自分の河内弁混じりの大阪弁を薄めようとも思わない.
ただ,この言葉・表現は,東京の人にはわからないだろうな,と思ってわざと標準語的表現をすることはある.
ただし,これは,礼儀・気遣いの範疇に入ると思っている.

明治維新のときに,当初は遷都先が大阪であったことをご存知であろうか.
いざ,皇居を大阪城に遷そうというときに,混乱にのさなか大坂城が炎上し,急遽,それまで事実上の政治の中心地であった江戸=東京に遷されることになった.
偏った大阪至上主義者は「なんで,そのときに大阪に遷都せんかったんや」と考えるところであろうが,私はそうは思わない.
大阪平野は,関東平野に比べて山と海の距離が非常に短く,しかも,古来より街があった.
現在,東京で首都機能の行き詰まりが,浮かび上がっているが,もし,大阪に遷都されていたら,もっと早く行き詰まりが訪れていたであろう.

偏った大阪至上主義者は,東京に負けまい負けまいとしているのが見え見えになっているのが見苦しい.
よく取沙汰されるのが,うどんのだし.逆に言いたい「大阪の自慢はそれだけか?」
他地方も尊重してこそ,郷土愛ではなかろうか.

他地方の人が,カンサイ,カンサイとステレオ・タイプ化するのも腹立たしい.十把一絡げにするな,と.
有名な街だけでも,京都,大阪,神戸,奈良,....とあるわけであるし,
単に行政区画の大阪府と言っても,
摂津,大阪,河内,和泉
大きく4つに分かれるのである.
言葉がこのなかだけでもかなり大きく異なるのである.
河内弁は誤解されやすいことに日頃から忸怩たる思いを抱いているので特に例に挙げる.
河内弁ときいて,「ワレ,そやんけ」と連想するのは,大きな間違いである.
河内弁の特徴というのは,促音と撥音の多用である.
例えば,東大阪市北部に「加納」という地名がある.これは,「かんのぅ」と発音する.
同様に「昨日」という言葉は,「きんのぅ」と発音する.
また,「行きよる」→「行ッきょる」などとなる.
さらに,古語辞典に載っているような単語を使うことも多い.
これは,逆に蝸牛考の考えで行くと,言葉の成立は

畿内=上方=貴族文化の中心地

から同心円状に広がるということに他ならない.貴族文化への憧れから生じた流行語の伝播である.
そう,実は古語ではなく,成立を考えると最新の言葉である.
「下らない物」という言葉は,「上方から来たのではない物」という意味である.これは事実である.

所詮,標準語は,

山の手=会津藩屋敷が林立していた場所

の言葉を基本に作った,人工の日本語に過ぎないことが明らかである.
例えば,「~でやす」→「~です」

実は,東京ことば≠標準語である.
勘違いしてはいけない.


※蝸牛考については,松本修著『全国アホ・バカ分布考』を読まれると良い.
そう,『探偵!ナイトスクープ』を全国区に押し上げたテーマである.
柳田国男ですら,京都を中心とした5重円しか描けなかったのに,なんと,13重円も描けた民俗学的に非常に貴重な調査結果である.

2002年1月29日

自動化,デジタル化に対する疑念

 機材倉庫に日本が誇るNikonの時のフラッグシップ機F3を置いていながら,写真の事にはこれまでまったく触れてこなかったことに気づいた.

 機材倉庫を御覧になってわかるように,私はマニュアルフォーカス派である.しかもフルメカニカルならそれに越したことは無い.
だいたい,高級一眼レフに全自動機能など必要なのか?と常々思っている.高級一眼レフの自動機能など複雑過ぎて使えたものではない.

 露出を自分であわせるのが難しいと仰せの御仁は,数多いるが,とんでもない勘違いである.
露出など,シャッタースピードと絞りの組み合わせにしか過ぎないのに,それを○×モードと称して何種類も用意して.
取り扱い説明書が分厚くなるだけである.操作系を覚えるだけで骨である.しかも全機能使うわけではない.
MFカメラの取説のシンプルなこと.しかもMFカメラは,一機種使えればメーカー共通,万国共通である.
扱いがシンプルなだけに慣れも早い.慣れれば,体の一部であり,実際には自動で焦点合わせ,露出合わせするよりもかえって早くなる.
しかもAFカメラというのはレリーズボタンを押してから,シャッター幕が走り出すまでの時間差がかなり大きい.
デジタルカメラなど,さらにそれが顕著である.
 それにデジタルカメラの画素数競争.これも馬鹿らしい.銀塩フィルムに追いつこうとしているに過ぎない.
鮮明で描写のいい写真をとりたければ,銀塩フィルムを使えばそれで事足りるではないか.

 とは言いながら,自動の恩恵を享受しているのも確かである.
自動露出も絞り優先は,撮影意図が反映されやすいので重宝する.
デジタルカメラのメリット,手軽さは十分認める.当サイトの説明写真も全てデジタルカメラで撮影したものである.
 しかし,それ以上でもそれ以下でもない.
いくら,自動化が進もうとも,撮影者の意図を電算チップが汲み取るわけはないし,デジタルが銀塩フィルムに取って代わることもありえない.
映画用の35mmフィルムがスティルカメラ用のフィルムとして使用されるようになってところで,乾板もブローニー版もなくならなかったように.

2002年3月28日

責任者出てこいッ!

この国はつまらない誤謬が多すぎる.
ここ何年もすっきりしない気持ち悪いことがある.

小数点の意味で"カンマ"と言うことである.小数点ならば"ポイント"だろうが.
カンマは桁区切りで全く意味が違う.
こんなに定着してしまっていまさら変えようが無い,しかも非常に恥ずかしい間違いをいったいどこの誰がやらかしたのか.

同じ記号を指して言う言葉に"ドットコム"という言葉もある.これはホントに正しいのだろうか.
ドットは略式乗算記号に使う,"・"であって決して"."ではないと思うのだが.
コンピュータの事実的基準を作り続けてきた合衆国のシリコンバレーではどう言い表しているのであろうか.
実際に耳にしてきた方,教えていただきたい.非常に興味がある.それを確かめるまで得心いかない.
また,コンピュータ関連であるならば,もうひとつ,"ホームページ"これは明らかにおかしい.
正しくはWEBサイトである.ホームページとはブラウザソフトを起動したときに最初に表示するように設定するページ,あるいはWEBサイトのトップページのことである.
ホームという言葉は拠点という意味を持っている.
これを知っていれば,日本で一般的に使われているホームページの意味が誤りであることがすぐにわかるだろう.
私は実際に口にしたり,書き表したりする場合にはWEBサイトまたはサイトと表現しているのは気付かれているだろうか.

こういうことを挙げはじめれば,枚挙に暇が無いのであるが,さらに具体例を挙げてみる.

レコードという言葉を聞いてアナログ・レコードと直結して連想する方に問いたい.
録音することを横文字あるいは片仮名で表現すると何と言いますか?なぜ,レコード会社はCD会社と一般名称を変更しなかったのですか?と.
(本来はレコードという言葉もおかしくて,フォノグラフ[phonograph]のはずなのだが)
もう少し発展させて,ビデオ=磁気テープメディアのみを指すのですか?DVD-Videoはビデオではないのですか?DVD-Audioは何と呼ぶのですか?と問いたい.
「ビデオとDVD」という広告文句をよく目にするのである.少し考えるとトンチンカンな表現である.
CDにしろDVDにしろ,12cm光ディスクのデジタル多用途記録媒体であって決して音声のみとか映像のみとか特定の用途に供される媒体ではない.
Compact Discであり,Digital Versatile Disk(Digital Video Diskではない!)というメディアの商標である.
フォノグラフは音声のみ,レーザーディスクは主として映像という経緯は確かに過去にはあった.
よく考えてもらいたい,「CDを聴く」「DVDを観る」という表現は実はかなりトンチンカンな言葉づかいであるのはお分かりだろうか.
写真を見るときに「ブローニーを見る」「35mmを見る」「APSを見る」あるいは「印画紙を見る」と言っているのと同じなのである.
誰がこんなことを言う?

そもそもの間違いは権威のあるヤツが最初に何の考えも無しに言ってしまうのが始まりである.
大衆は流されやすいものなのだから,十分にその自らの影響力を考えてから,言葉を発してもらいたいものである.

最初に誤謬を植え付けた不届き者!そこへなおれ!!成敗してくれる!!!

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2002年4月28日

読み仮名の矛盾

 成り行き上,言葉について第三弾.

 長年の間,不思議で不思議でたまらない,今でも腑に落ちないことがある.

それは“地面”の読み仮名が“じめん”だということである.

“地”という文字,一字だけなら“ち”だろう.
“地名”は“ちめい”であって“しめい”ではないし,“土地”は“とし”ではない.ましてや“地球”は“しきゅう”では断じてない.
なのになぜ“地面”は“ぢめん”ではないのだろうか.

国語審議会の読み仮名の規則では,

 複合語で濁音となる場合には単独の単語のときには,清音に濁点をつけ,もともと濁音のときは原則として,ざ行を用いることにする.

というものである.

 だから,鼻(はな)+血(ち)は,鼻血(はなぢ)である.けっして,“はなじ”ではない.
風邪や花粉アレルギーの症状であるところの,鼻がつまることは,“はなづまり”であって“はなずまり”ではない.
この法則から行けばやはり,“地面”は“ぢめん”のはずである.
今まで何度も国語審議会の改訂を見てきたが,これだけは一向に改められる気配すらない.

 もともと濁音のときは原則として,ざ行を用いるとはしているが,やはりおかしいのではないかと思える語もある.
“伯父”,“叔父”,“小父”はどれも“おじ”である.“父”は“ちち”なので,“おぢ”の方が本来のような気もする.
外来語にもある.“ラジオ”がそうである.英語の綴りは“radio”であえてカナで読むなら“レイディオ”.
“ラジオ”ではなく,“ラヂオ”のほうが,近いような気がする.

もう一例は,尾篭な話で申し訳ないが“痔”である.
これは大阪だけのことかもしれないが,薬局・薬店で掲げている痔の薬の看板には,
でかでかと

と記されているのである.症状や痛みなどを非常によく表していると思うのだが.


最後に,大正・昭和初期の洒落.

「世の中は,清むと濁うで大違い.刷毛に毛がある,禿に毛がない.」

2002年7月15日

イカ・タコ

 空に揚げる凧は現在“タコ”と発音する.これが本来“イカ”だったことをご存じだろうか.

 おそらく,にわかには信じがたいかと思うが,本当である.
 戦後しばらくまで存命だった,私の曾々祖父がハッキリと言っていたと父に聞いているし,
祖父も「昔はそう言っていた」と言ったのを聞いたことがある.

 そもそも“くだらない”物というのはどういう物かというと,
江戸では,もともと上方(京・大坂)からもたらされた物を“下りもの”といい,高値で取引されて喜ばれた.
それ以外の地方からもたらされたものを“下りもの”の対語として“下らないもの”と流通の方向で差別していたわけである.
舶来志向やブランド志向の原形かも知れない.

 現在は遷都され,経済・文化の中心は東京にあるので,大阪が東京に対抗している図式ができあがっているが,江戸時代は逆.
実質的な政治だけが江戸で執られていたものの,朝廷が厳然と存在し文化の中心は上方にあった.
“上洛”,“下向”,和宮妃の“降嫁”という言葉がそれを表している.
方向は逆になったが,交通の“上り下り”,“上京”といった言葉と発想は同じである.

 前置き的な解説をこれぐらいしておけばもうおわかりかと思う.
和凧の形状は,奴凧や蝉凧等あるが,四角いものが基本である.で,安定のために足が付いている.
平べったく干物にした蛸と烏賊どちらの方が形が近いかというと,丸みを帯びた蛸よりも角張った烏賊だろう.
 上方で“イカ”と称して遊んでいた玩具を江戸ではそれに対抗して“タコ”と称していた.
明治新政府樹立後,東京の山の手の言葉を基本に標準語が作られたので“凧”の読み方は“タコ”と固定されたのである.
国語辞典で“凧〈たこ〉”を引くと最後に「いか(のぼり)」と明記されている.

 こういった,生活・風俗を表す言葉の語源などは,ハッキリした意味がなく,スラング的に発生するので,
遡ってたどってみると意外な物にぶち当たるものである.

2002年9月 8日

表と裏

 昨今,何かと話題の日本海であるが,その日本海側のことを"裏日本"と表現することがある.
山陽と山陰.これは分からないではない.太陽は南から照るので,日なた側と日陰側ということは言えるだろう.
だが,"裏"というと何やら正規の物ではない,後ろめたい印象がつきまとう.

 確かに,現在は,東京湾~東海~大阪湾~北九州が太平洋ベルト地帯と呼ばれて,工業・経済で大きな役割を担っているが,それでも北九州は日本海側に位置している.

 しかし,なぜ,日本海側が"裏"なのか?なんとも日本海側に住んでいる人々にとっては失礼な話ではないか.
古来,文化は中国大陸~朝鮮半島を通って日本にもたらされた.
ということは,日本海側は実際には,"表"玄関ではないのか.
太宰府も,西からの侵攻に備えて設置された役所である.

 誰が言い出した言葉かは知らないが,おおよそ,その指されている地域の人たちを意識して考え出された言葉とは思えない.
中央から見た差別的侮蔑的印象が,具体的に言葉に表れた悪意を含んだものとついつい解釈してしまう.

 小さなことでも,その言葉が含む意味について意識しながら使うように心掛けたいものである.

2002年10月18日

まるで時限装置

 昨今,資源のリサイクルや製品の長寿命化が,うるさく言われている.

 しかし,メーカーの態度は宣伝等で言われているような耳に心地のよいこととはほど遠いように思われて仕方がない.
例えばビデオデッキ,経験がおありなのではないだろうか,購入から1年を過ぎたビデオデッキで,
テープがデッキ内部に巻き付いて取り出しができなくなったということが.

 ビデオの再生・録画の際には,アームがテープを引っ張り出してヘッドに巻き付けるような格好になるのだが,少し古くなると取り出しの際に
テープをカセット内に戻せなくなってしまうにもかかわらず,一方では無理矢理カセットを排出しようと動作するから,せっかくのテープも台無しである.

 原因は何種類かあり,一つは,潤滑油の劣化あるいは部品の摩滅ですべりが悪くなって駆動しなくなること.
もう一つはプラスチック製の駆動プーリーが収縮のために割れて動力が伝達されなくなってしまうこと.

 どちらにせよ,映りは悪くなっていないのに修理に出すと,ヘッドまで交換されて,部品代と工賃合わせて2万円ほどもかかってしまう.
しかし,この二原因とも自分で修理が可能と来ているので余計に腹が立つ.
特に2つ目の故障要因など,部品自体は数百円のはずである.
ところが電器店で部品注文しても,全体がユニット化されているので単体では売れないと言うのだ.
プーリーの割れ方を見るとどう考えてもそういう収縮するような素材を使うべきではない場所に使われているのだ.
経年変化で必ず全体の機能に支障をきたす部品である.換言すれば時間が経つと必ず決まった場所で故障する時限装置のようなものである.

 実は私は自分で使い古しのギターの弦を焼き鈍してこの修理をやってしまって,更にヘッドの摩滅で映らなくなるまで3年ほど使い続けたのである.

消費者に製品の回収費用を負担させるくらいなら,その前にもっとまともに使い続けられる商品を生産して欲しいものである.

2002年12月 9日

身内を評価しない日本人

 日本初の会社員ノーベル賞受賞者として島津製作所の田中耕一氏が熱狂的に話題を集めていているが,
2002年のノーベル賞の選考はかなり手が込んでいたそうである.
現在世界中で用いられている蛋白質の検査方法で田中氏が開発した手法があるのだが,
実は誰の発案かがはっきりと認知されていなかったそうで,ノーベル賞選考委員も誰が開発したかを血眼になって捜したという話らしい.
要するに日本国内ではもちろん認知されていなかったという証左でもある.
ノーベル賞受賞の報を受けて,文化勲章や国民栄誉賞の授与など言語道断である.順番が逆ではないか.

 他にも日本人が世界でもいち早く発見・開発したものが多数あるそうだが,そのいずれもが国内では評価されずに海外流出している.
ビタミンなどは日本人学者が発見し,“オリザニン”として発表したものの,学会では認められないどころか酷評されたそうである.
少し後にイギリス人学者が同様の研究で“ビタミン”として発表し,世界中で栄養素として認められたそうである.
乾電池もそう.ごく最近では,青色発光ダイオードもしかりである.

 国レベルだけではない,自分達の組織内のものは認めようとしない.
私も企業の技術開発部門に属しているが,同じようなことが経験として実感できる.
技術開発が完了して社内でアピールしても誰も見向きもしないし,問い合わせもこない.逆に使えないと非難されるのである.
ところが,業界紙等で報道された途端に社内から問い合わせが殺到するのである.

 エンターテイメントの世界ですらそうである.
私が高校生の頃から10数年に亘って憧れの対象としているロックギタリスト,Kenji Jammerこと鈴木賢司も,国内でよりも海外で評価され,活躍中である.
逆に日本国内でヒットチャートに登るギタリストが“日本を代表する”とか紹介されるが,実際のところ海外で通用するかというと非常に疑問である.
野球やサッカーに限っては日本で地固めをして,海外チームで,という道順が出来ているようだが,その他の分野ではそれが出来ないようである.
日本で通用しても海外で通用しないし,海外で通用するであろうものは日本では認めてもらえない.

 日本は,加点主義ではなく減点主義が主流であるから,とニュースワイド番組では分析しているが,果たしてそんな紋切り型の片付けかたでよいのだろうか?
もっと根源的だからこそ,気付かない理由があるはずである.それは日本人が美徳としている,“謙虚さ”である.
外国からも日本人の国民性として良い印象として評価されていることが,この謙虚さであり,日本人自身も誇りに思っているようだが,
この,身内を評価しないことが,誇りに感じているはずの“謙虚さ”の表裏一体のものであると気づいている人がいかほどいるだろう?
贈り物を差し出すときに「つまらないものですが」と言うアレに代表される謙虚さが,である.
もっとも,自信の裏返しは傲慢なので,傲慢と謙虚のいいとこ取りというのも非常に難しい注文ではあるのだが.

2003年3月 5日

順番がおかしいやろ!?

 近頃,コンビニエンスストアやファーストフード店などに入ると,決まって店員が
「いらっしゃいませ.こんにちは.」
と客を迎える.これは,語順が逆ではないのか?

日本語の挨拶の決まり文句である,
「おはようございます」
「こんにちは」
「こんばんは」
「さようなら」
すべて漢字で書くと当然ながら,
「お早う御座います」
「今日は」
「今晩は」
「左様なら」
となる.
すべてが,本来は社交辞令であり,後に続く言葉が省略されているものである.「お早う御座います」も自分より先に来ている人に対する労いを含む.
例えば,「今日は,天気もよろしいですね.」や「今日は,ご機嫌いかがですか.」などとなるはずである.
と,考えると冒頭に述べた例は,
「今日は,ようこそいらっしゃいました.」となるはずである.
誰がマニュアル化したか知らないが,非常に気持ちが悪い.
この現象は言葉が記号化していることに他ならないのではないだろうか.
作家の井沢元彦氏は,日本人は“言霊”に無意識に縛られていて,それが日本人の国際感覚の欠如や夢想的理想主義の原因となっていることを指摘しているが,
その一方で万葉集など優れた文学のよりどころとなっていることも確かである.
日本語の中で,言霊の悪い部分だけが残って,美しい部分が失われているように思う.

 また,関西弁で礼を言うときの「おおきに」=「ありがとう」とお思いではないだろうか.
これは間違えてはいけない.「ありがとう」はあくまで「ありがとう」であり,すべて言うと「おおきに,ありがとう.」である.
おわかりだろう.「おおきに」というのは,Thank you very much.の"very much"なのである.
ギャグで「おおきに,ベリーマッチ」などというのをたまに聞くことがあるが,全く意味が通らないのである.
ギャグといえども,浅学というか,語源を知らないこと夥しい.

 言葉を記号化せずに,言葉は事象を置き換えるものであると捉えてみるべきではないだろうか.
そのためにも下品な略語は極力使わない方がいい.

2003年3月12日

WEBサービスの覇権

私がこのサイトを立ち上げる際,Tripod(LYCOS)でレンタルサーバを借りることから始めた.
自前のCGIを使いたいがためにisweb(infoseek)のサーバも借りた.
アクセス解析にCGIBOYも使っていた.
職場で情報収集のためのメールマガジンを登録するときの転送メールにAnetを使っている.

もともとは各別々の会社が運営してたはずである.
ところが,現在全てがinfoseekと事業提携あるいは事業吸収されている.

この事実,皆さんご存じだっただろうか?

2003年3月31日

目指せ,脱Microsoft Windows

日本としては今後,オープンソースのLinuxや
国産OSで,すでに携帯電話やその他の家電制御用マイコンで実績のあるTRONを推進していくとか.
ええことです.
高すぎるから金払いたくないのに,その辺が分かってるのかMicrosoft!アクティべーションみたいな姑息なことしやがって.
OSでも高くとも一万円前後くらいまでならちゃんと買うわい!嫌々ながら,これしかないから仕方なく使ってるだけで.
私物のPCでは,MS Officeではなく,フリーのOpenOfficeを使っている.
禁則やぶら下げなど日本語処理は,まだ,一歩とはいうものの,かなりMS Officeのデータと互換があり,使える.
私はもしかするとWindows XPは使わずに終わるかも(笑).

2003年4月12日

煙に巻かれるな

 昨今,宣伝文句として専門用語のようだが,少し考えると意味不明の言葉が氾濫している.
例えば,“マイナスイオン”であり,例えば,“アミノ酸”である.
具体的にどんなものなのか?はたまた,どんな効果があるのかが,さっぱり説明されていない.

 マイナスイオンなど,高校の化学の知識があれば,容易に眉唾ものの言葉であることは察しが付く.
マイナスイオンと聞いて,私が真っ先に連想するのは,化学反応式上では,Cl-と表記される,“塩化物イオン”である.
食塩=塩化ナトリウムNaClを水溶液にしたときに遊離する,アレである.
気体分子としては,便所の洗剤や漂白剤に使われたり,上水道の消毒に使われる塩素である.
単純に考えて,こんなものが身体に良いと思う方が間違いである.塩素ガスなど,最も簡単に製造できる毒ガスである.
また,便所の洗剤で誤って塩素ガスを発生させてしまって,死亡事故にまで発展するケースもしばしば起こっている.
果たして話題になっているマイナスイオンとは,何なのか,どなたか私に納得できる説明をして頂きたい.
寝ている間に,寝返りを打つことでマイナスイオンを発生する布団など,どう考えても静電気としか考えられないのだが.
静電気は,化学繊維の衣服を着用することで骨の主たる構成要素である軽金属=カルシウムに作用して悪影響を及ぼすとの説もある.
私にとっては,こちらの方がよほど説得力があり,良い影響があるとは到底考えられないのだが.

アミノ酸にしろ,世間で言っているのは,一体何を指しているのか?アミノ酸といえば,蛋白質の最小構成要素である.
単にアミノ酸と言えば,数が多すぎる.必須アミノ酸なのか?化学調味料である,L-グルタミン酸ナトリウムもアミノ酸である.
多岐に渡りすぎて,どれが何にどういう効果をもたらすかなど,一般人で言える人などいまい.

 「学校で習うことは,役に立たない」と言い切ってしまう方々にもの申す.
今回挙げたようなことに踊らされないだけでも,学校で習う知識は十分に役立っている.
無批判に取り入れてしまうことが,いかに学校で習ったことが身に付いていないかの証左なのである.

注)滝の付近で水の飛沫によって発生する,クラスターイオンは,仮説だが存在すると言われているが,
クラスターイオンとマイナスイオンは,言葉の定義上全くの別物である.
さらには,マイナスイオンと負イオンも別のものを指しているらしい.

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2003年6月13日

ラジオ・テレビ

 中高生の頃は,ご多分に漏れずラジオの深夜放送をよく聴いていた.
大阪では,朝日放送(1008kHz)「ABCヤングリクエスト」と毎日放送(1179kHz)「MBSヤングタウン」が二大巨頭だった.
あるいは,ラジオ大阪(1314kHz)「浜村淳のサタデー・バチョン」「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」等々.
私よりも少し上の世代の人では,少しインテリ目の人がヤンリクを聴き,やんちゃ目の人がヤンタンを聴くという傾向があった.
私はヤンタン・リスナーだったので,ヤンリクのことはわからないが,
ヤンタンはパーソナリティが豪華で,毎日放送は在阪局にもかかわらず,夜間は電離層の作用で電波が遠方でもよく届くことから全国にファンがいた.
大阪のラジオ番組というのは,ある種独特の雰囲気を持っており,ほとんど芸人の楽屋でのウダ話といった様相だった.

 '80年代後半には,このヤンタンを発祥として同時にいくつかのテレビ番組も制作された.ラジオが発信元でテレビ番組が制作されるのである.
古くは,「ヤング おー!おー!」に始まり,「夜はクネクネ」「あどりぶランド」等々.
蛇足だが,,あの「欽ちゃんのドンとやってみよう!」~「欽ドン!」もニッポン放送のラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!」を
テレビ番組に移行させたものだったそうである.
今,ほとんどそういった番組は,見かけない.

 いま,ラジオ,特に中波局はいまひとつ盛り上がりに欠ける.
少し前までは,深夜放送の番組には必ず居た,常連リスナー達,いわゆる“はがき職人”が行き場を失っているというのである.
インターネットの普及で,投稿にはBBSやEメールを使えるので非常に手軽になって居るのに,である.
実際に話芸に秀でた人,若手の芸人でなく,単にテレビの人気者を起用してしまうため,番組のパーソナリティがそういった材料を使いこなせない人ばかりなのである.
パーソナリティに起用される人がラジオ世代ではなくなったのだろうか.
午前~昼間の主婦向け番組は,長寿番組の「ありがとう,浜村純です」や「おはようパーソナリティ道上洋三」を筆頭に,
変わらず面白い番組が安定して供給されているのに,
夜間・深夜がヒットチャート番組しかないのは,20年来の深夜ラジオファンの私としては非常に残念である.

2003年9月26日

アナログとデジタル

 以前にも同じようなテーマで書いたことがあるが,書き尽くせていないので,再び俎上に載せる.
念のために断っておくが,私はデジタルを否定しているのではない.
現時点では,まだまだアナログに近づくための努力が懸命になされている段階であり,
性急にアナログをデジタルに置き換えるべきではないことを言いたいのである.

 よく,パソコンを扱うのを苦手な人が自らを自嘲的に「自分はアナログ人間だから…」などと言ったりするが,
デジタル技術=先進,アナログ技術=時代遅れ.などとお思いの方が多いのではないだろうか.
大きな間違いである.
アナログ技術は完熟した技術であり,デジタル技術は発展途上のまだまだ不完全な技術なのである.
その証拠に,情報媒体が次々に開発され,登場している.フロッピー・ディスクに始まり,CD,DVD,Bru-Ray,….

 アナログ=物理学的,デジタル=数学的と換言できるかもしれない.
機械等の電気制御でアナログというと,電圧変化を使って制御している.デジタル制御はそれを数値化して,論理的に制御している.
どちらが誤動作が多く発生するかという問題は状況にもよるので別にして,融通が利くのはアナログ方式である.
 我々の周囲の森羅万象の事象はすべてアナログの世界である.物差しとしての数値化はあるが,数値そのものが出来事を司っているわけではない.
 例えば,同じように数式による計算をする場合でも,物理的な計算を行う場合と数学的な計算を行う場合では,手続きが違う.
10を3で除した場合,3.3333…となるが,物理計算としての考え方であれば,便宜上結果に影響のない桁で丸めて3.33として扱うことができるが,
数学的な計算では,3.33としてしまうと3を乗じても9.99で10とは0.01も隔たった数値が返されてしまう結果となる.
しかし,どちらの結果も正しいのである.

 だが,日常のことを表現するには,どちらが正しいか?
大抵のことは,誤差吸収されてしまう.厳格にしてしまうとキリが無いからである.しかもアナログ的誤差というのは,限りなく真値に近い誤差である.
対して,デジタルの場合には,そのキリの無さを吸収するために分解能という考えを用いる.ところが妥協点を見つけるための判断というのが非常に難しい.
ハッキリと白黒が線引きされてしまうからである.
そこで,登場したのが,ひと頃,世間を賑わせた“ファジー理論”である.
「曖昧さを取り入れたデジタル制御理論」ということで非常に画期的なことと思われがちだが,何のことはない.分解能を10倍なり100倍に向上させただけである.
これもデジタル的論理展開を以てアナログに近づける努力をした結果である.


このように考えると真の意味でのアナログ人間とは,広い度量を持った正しい判断を下せる人のことを指し,
デジタル人間とは,融通の利かない,トラブルに非常に弱い人であるとも言えると思うのだが.


決してアナログ=アナクロではないのである.
そして,少なくとも現時点では,デジタルはアナログの補助にしかなり得ない.
さらにどこまでデジタルが発展しようが,最後に判断を下すのはアナログ活動しかできない人間なのである.

2003年11月12日

総選挙に思う

毎度のことだが,総選挙と同時に行われる,最高裁裁判官の国民審査.
候補者の名と政党名は投票所に掲示されているが,国民審査についてはまったく何もなし.
裁判の内容と判決は、政府広報では告知されているのだろうが,なかなか容易に目に触れるものではない.

不在者投票は確かに敷居が低くなった.
次は国民審査をもう少し何とかしてほしいものだ.
裁判が難解になっている原因ともなっていると思う.

2004年1月24日

東北史好き

東北の歴史が好きと言っても,ごく限られた期間,平安時代と戦国末期~江戸初期のみなのであるが.
具体的に述べると,征夷大将軍坂上田村麻呂で知られる朝廷対蝦夷(えみし)の三十年戦争と奥州藤原氏の興亡,そして伊達政宗の生涯である.

そもそものきっかけはNHK大河ドラマである.
伊達政宗については1987年の『独眼竜政宗』である.大河史上最高のヒット作なのでこの作品のファンも多いだろう.
当時は,単に政宗を演じる渡辺謙の凶暴なほどにダイナミックでギラついた演技が魅力で食い入るように見ていた.
続いて奥州藤原氏の興亡を描いた1993年の『炎(ほむら)立つ』である.この作品も主演は渡辺謙だったが,ワーストに挙げた方がよい程にあまり知られていない.
題材として源義経の滅びの背景としてしか一般には馴染みがないのが要因だと思うが,筆者にとっては更に掘り下げたことが新鮮だった.
いきなり源義経の背景として登場する奥州藤原氏の興りが描かれることがそれまではほとんどなかったからである.加えて三代秀衡以外が描かれることはほとんどなかった.
歴史史料でも前九年の合戦については「陸奥話記」に数行記述があるに留まっている.初代清衡の父親,藤原経清もそのような人物がいたことしかわかっていない.
そんな藤原経清を中心に前九年の合戦を描いた『炎立つ』第一部に非常に熱い物を感じた筆者は,奥州藤原氏について本を読みあさった.ついには平泉にまで足を運んだ.
すると,意外にも,奥州藤原氏と伊達政宗はつながる事項が多かったのである.
二者とも傍流であるが京藤原氏に祖を求める血筋である.
奥州藤原氏は平将門の乱鎮定の功があった大百足退治で有名な俵藤太秀郷の流,伊達氏は源頼朝の奥州合戦に従軍した藤姓の中村朝宗が功を上げ伊達郡を賜ったことに発する.
また二者とも奥羽の活気を印象づける存在である.源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされた後,歴史上に東北地方を印象づけるのは伊達十七代政宗まで待たねばならない.
室町時代の伊達氏中興の祖と呼ばれる九代大膳太夫政宗も知る人ぞ知る存在であるものの実にその間約400年(伊達“政宗”は二人いる.十七代政宗は九代政宗にあやかった名).
そうしたことをきっかけに更に遡ると,蝦夷の英雄=阿弖流為(アテルイ)に突き当たる.
朝廷側の大将=坂上田村麻呂はあまりに有名だが,阿弖流為はほとんど知られていない.
戦の起こりは奥羽地方に産する黄金を公卿が収奪しようとしたことによる(前九年合戦の発端も同じ).
田村麻呂は「怒れば鬼も恐れ,笑えば子供がなつく」と言われるほど懐柔策も巧い武人である.
田村麻呂は阿弖流為を生かして束ね役にしておけば蝦夷の反乱も抑えられると考え,阿弖流為も田村麻呂の人柄を見込んで投降したはずなのに,公卿が強硬に河内守山(現在の大阪府羽曳野市辺り)で阿弖流為の首を刎ねてしまった.
“清水の舞台”で有名な京都東山の清水寺は坂上田村麻呂の建立であり,阿弖流為の供養のために建てられた寺院である.
東北旅行をした後,そんな公家達の町京都で進学の関係で生活することにあまりいい気はしていなかった.

現在は観光地となっている平泉の達谷の窟を住処とした“悪路王”=阿弖流為とされているのがあまりに酷い.
本来は地元の古代の英雄であるはずが,大盗賊の頭目のごとき扱いである.
是非地元の方々には,阿弖流為の復権・名誉回復をして頂きたいと思っている.
筆者の主張である,「郷土愛を持て」「地方をステロタイプ化して見下すな」というのは,そもそもここから来ているのである.
筆者が大阪で生まれ育ったからといって,ありがちな大阪ナショナリズムだけで言っているのではないことを分かって頂けるのではないだろうか.

お薦めの歴史小説
山岡荘八「伊達政宗 全八巻」(山岡荘八文庫)
高橋克彦「炎立つ全五巻」(講談社文庫)
高橋克彦「火怨 上下巻」(講談社文庫)
高橋克彦「風の陣」(PHP)

2004年1月29日

もうちっとはマシな人だと思ったが

 長野県知事,田中康夫氏.

 長野県を信州県に変えようとしているとか.
文学者とは思えない馬鹿げたことを言い出すものだ.

 “信州”とは,“信濃の国”の略式表現であり,州=国で同義でさらにいうと現在の用い方では州と県も同義であると言えよう.
例えば,陸奥は奥州と言うし,出羽は羽州,尾張は尾州,三河は三州,和泉は泉州である.
早い話が二重表現である.敢えて言うなら信濃県だろうが.
ということは,“信州”という言葉に馴染み云々という理由付けは成り立たないわけである.

 なんでこのような基本的なことに気が付いて指摘しないのか,マスコミ.
特に“正しい日本語”の啓蒙者を自ら標榜するNHKこと日本放送協会も底が知れている.

 道州制をにらんだ,ともっともらしいことを言っているが,
それ以前に,現在の都道府県の行政区画よりも,かつての国の区画の方が気候風土から合理的なのではないか?
地方行政とは気候風土・土地柄に合わせたきめ細やかな住民生活に対応するものだからである.

 例えば,現在の三重県.近畿地方に属するのか東海地方に属するのかという曖昧な点がある.
経済圏と行政圏で見解が異なり,また,気象学的には,一県が3つに分かれるらしい.

 交通機関,情報網が発達したからといっても,
やはり,地理的な山や川の存在は大きく人の心に影響するもので,決して無視をすることはできない.

 信州県への改称案,長野県民は本当のところ,どう思っているのか?

2004年8月19日

満員電車

 毎朝,土曜日や日曜日が出勤の日以外は多分に漏れず,満員電車に揺られている.
東京の中央線の列車はラッシュ時には,座席が跳ね上がる車両を導入することについて賛否が巻き起こったことがあった.
そういうことに対して反対意見を述べる人物に限って日常満員電車を利用しなければならない環境に置かれていないのである.
「座席を跳ね上げて定員を5%ばかり増やしたからってどうなのだ?その姑息な考えが気に入らない」などともっともらしい事をしたり顔で言うがそんな問題ではないのである.
そういう輩には身動きできない満員電車で座席の前で吊革につかまって背後からの圧迫に耐える辛さを味わってみろ,と声を大にして言いたい.
座っている人の膝に自分の脚が当たったり,場合によっては相手の膝を割って自分の膝が相手の股間に入ってしまうこともあって気まずいことこの上ない.膝頭を支点に逆向きに膝を曲げられるような格好になり,膝を痛めるかと思うこともしばしばである.
運良く座席に着くことができたらできたで,前に立っている人の塊が崩壊してくるというちょっとした恐怖に耐えねばならないし,立ち上がることすらできないこともある.

 その点,座席が跳ね上がると大多数の立ち客と限られた着座客という不均衡・不公平はもちろんなくなるし,車内での動きもスムーズになるので乗降も円滑に進むはずである.

 大阪ではせいぜい,京阪電車が通勤ラッシュ時には開閉するドアを増やす工夫がなされている程度だが,筆者はラッシュ時の座席は無用だと思う.
もちろん,脚の不自由な方もいるだろうから,全くなくしてしまえとは言わないが,ほぼ定着したと思われる,女性専用車両と同様の措置を取ったらどうかと思うのだが.

2004年10月19日

嬉しい筋肉痛

30代も半ばともなると,身体的な衰えが実感として出てくるようになる.
最も顕著に表れるのが筋肉痛ではなかろうか.
たまに力仕事やスポーツをすると二日後に筋肉痛に襲われるなど….
幸い筆者はまだ翌日に筋肉痛が現れる.
実際のところは,筋肉痛が出る時点で日頃運動不足に陥っていることに違いはないのだが,
「運動不足にもかかわらず,まだまだ若い」と安心できるのである.
大学時代の同級生には,その頃から二日後に筋肉痛が出る者も居たので年齢的理由は直接的には無関係かもしれないが.

そこで,はた,と思うのだが「まだまだ若い」と思ってしまうこと自体が,かなり年齢がいってしまっている証拠なのではないか!?

2004年10月23日

何が目的だ?

かなり言い尽くされた話だが,今年は台風が多い.
しかもかなり強い台風で被害も甚大である.
人的被害,物的被害ともに捜索や撤去~復旧作業が必要となる.
そこで登場するのが,自衛隊である.しかし,自衛隊の隊員の服装がどうもいただけない.
なぜ迷彩服に身を包んでいるのか?迷彩服とはゲリラ戦に於いて茂みに身を隠すためのモノである.
自衛隊は誰がなんと言おうと本質は軍隊である.だから,普段はそうあるべきであるのは確かである.
また,消防のレスキュー隊の作業服はオレンジ色である.とてもよく目立つ.
ということをふまえて考えてみると,救助隊として自衛隊が活動する際に於いては迷彩服は的確なのか?
目立たなければ,生き埋めになっている被災者などの目に付かず,声を上げることも出来ないではないか.
体力が消耗している状態で声を出すのは,さらなる体力の消耗を招く.だから,最も重要な時点で声を出し,不必要な時には黙っていなければならない.
目立つ服装であれば,近くに来たときに声を上げて自分の存在を知らせることが出来るが,目立たなければ行き過ごしてしまうかもしれない.
自衛隊に出動要請が発せられる場合には災害発生から時間が経っていることが多い.
災害救助・復旧のために服装を替えることぐらいなんでもないはずである.

少し話は飛ぶが,逆に政府や自治体の防災訓練,特に大規模災害特別措置法に基づく訓練の際,なぜ,首相や首長は作業着に着替えているのか?
しかも,おろしたての折り目がキレイに残っている作業着である.違和感を覚えずにいられない.
自然災害は突発的に起こるものである.とりわけ大規模災害特別措置法は東海地震を対象としている.
実際の大地震の発生とそれに伴う震災が生じたときには作業着に着替えている暇などないだろう.
“おっ取り刀”という言葉があるが,取るものとりあえず,刀だけひっつかんで馳せ参じるという意味である.
それに統括して指揮を執る人間は,最前線の現場に立つのではないから作業着に着替える必要もない.
もし夜中なら,一般の人々は寝間着で,まさに文字通り着の身着のままで避難することになる.それが現実ではないのか.

正反対ではあるが,どちらも実際的ではなく,形式にこだわりすぎて逆をやっているような気がしてならない.

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2004年11月10日

自然災害への備え

言い尽くされているが,今年は本当に自然災害が多い.
次々に襲来する台風,火山噴火,そして今も強い余震が続く新潟県中越地震.
幸い,私の住んでいる地域は,どれについても直接的な被害が出ていない.
しかし,いつこうした自然災害に襲われるともかぎらない.
特に今懸念されているのが,東海~南海地震である.
しかも,過去の地震記録を見ると,東海地震と南海地震が同時発生したり,わずかの期間で連続的に発生したりすることが多い.
東海~東南海~南海地震が同時発生すると,関東~九州の太平洋側が全て被災地になる.
兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災以降,日頃から非常持ち出し袋に懐中電灯や非常食などを用意しておくようにと言われているが,今回の新潟県中越地震で非常持ち出し袋が役立ちましたという被災者の声は聞いたことがない.最大約10万人の被災者の方々が避難したというのにである.準備した人が一割いれば一万人のはずであるのに.
そして,役立っていれば非常持ち出し袋の有効性が証明されたことになる.
局地的な災害であれば,兵庫県南部地震や新潟県中越地震の例でも3日程度で救援物資がほぼ行き渡り,周辺地域から救援に駆けつけることも出来る.
運良く身体は無事で,それまでの3日程度をしのげるのであれば,非常持ち出し袋も十分役立つと言える.
しかし,東海~南海地震が発生した場合には,被災地が前述のように広域となる.このときどこから救援が来るのだろうか.3日どころでは済むまい.
災害報道を見ながら考えているが,まだ結論は出せていない.
どなたか良いアイディアはないものだろうか.

2004年11月30日

政権は100年で破綻する

完全に私見である.
ただ,日本有史以降,すべて合致する.
大宝律令から約100年後,荘園によって律令制が形骸化し有名無実になり摂関政治へ.
鎌倉開府から約100年後,元寇をきっかけに幕府が弱体化し後醍醐天皇の蜂起により滅ぶ.
室町開府から約100年後,応仁の乱が勃発し,幕府が弱体化,戦国時代に突入する.
江戸開府から約100年後,幕府財政難と共に徳川将軍家が絶え,徳川吉宗が征夷大将軍に就任.紀伊徳川家に乗っ取られる.
さらに約100年後,開国~大政奉還~戊辰戦争~明治維新である.

さて,近代・現代の体制も100年に到達している.限界に近いのではないだろうか.
何をもって100年とするかの判断は難しいが.明治維新から130年か,選挙による政党政治から100年か,第二次大戦終結から100年とするか.
おそらくは,選挙による議会政党政治開始から数えるのが妥当と思われるが,こればかりはごく遠い将来から見てみなければ判断できないことかもしれない.
しかし,現在,様々な矛盾が噴出している.
環境問題に関しては,30年以上前から公害問題として顕在化している.官僚制の硬直化でどこの自治体も国の省庁も立ち行かなくなってきている.
30年前までならば,ここで『革命』という言葉を使ったところで何も不思議は無かっただろう.
しかし,事実上,社会主義国家建設の実験が大失敗に終わった今,これも夢のまた夢である.
ソビエト連邦については,100年もたなかったのである.
だからといって,資本主義が優れているかというとそうではない.自然発生的に発展してきた経済体制なので人心に受け入れられやすかっただけである.
その日本資本主義も,グローバル化,ボーダーレス化で矛盾の顕在化がさらに加速度的に進むのではないだろうか.

既に近代・現代の体制も破綻していることを意識しておかなければならない.

2005年1月 2日

正月に思う

世間でもよく言われているが,年々正月情緒が失われているように思う.
あまりに世の中便利になりすぎである.だから普段と印象が変わらなくなってくる.
正月は休むもの.おせち料理は,家事をサボるために比較的日持ちする質素なものなのである.
古来から正月はかきいれどきとされている商売は別として,
ユダヤ教のサバトのようにせめて元日だけでも労働活動はすべて活動をとめるべきではないか.

2005年1月21日

一芸名人

2004年の若手ピン芸人でもっとも注目されたのは,言わずとしれた“ギター侍”こと波田陽区だろうが,
早速,今年一年もたずに飽きられるだろうとも言われている.しかも,かなり世代的にピンポイントの受け方である.
しかし,似たような芸のスタイルでベテランで長く続けている人も考えてみればいるのである.
“なんでかフラメンコ”の堺すすむやウクレレ漫談の牧伸二.
この二人の芸は,かなり普遍的でいつ聞いても面白いと思える.
私は個人的好みとして波田陽区の芸は面白いとは思えないが,
しかし,忘れられようがどうしようが続けてさえいれば,
堺すすむ,牧伸二クラスになるのではないだろうかと思っている.
いや,むしろ,ポッと出のピン芸人として消えて行くのではなく,改めてどちらかに師事したらどうかと思う.
そうすれば,いつの時代にもどの世代にも通じる,“ギター侍”が誕生するのではないだろうか.

徒弟制度というのは時代にそぐわないと思われがちであるが,やはり,弟子時代を経験した芸人は底力があるように思う.
違う見方をすると,弟子時代で芸人として既に淘汰されてしまうが故に残って行くとも言えるかもしれないが.

2005年4月26日

型式

小学生の一時期,ゼロ戦に興味を持ったことがあって一冊図解本を読んだ.
ゼロ戦とは零式艦上戦闘機であり,米軍パイロットにもZERO FIGHTERとして恐れられたことから,逆輸入名称のような形で定着したものである.
神風特別攻撃隊を初めとして第二次大戦時の悲劇的な逸話がついてまわる機体だが,
航続距離,運動性能を初めとして間違いなく日本の航空技術史上類い希なる傑作戦闘機である.
その本には開発の経緯についても少し述べられていて,先行の海軍制式戦闘機に九六式艦上戦闘機というのもあった.
九六式と零式の明らかなる違いはランディングギア(車輪)の飛行時の状態である.
九六式は脚を伸縮式にして車輪に流線型の覆いを取り付けていたのに対し,零式は主翼底部に折りたたんで空気抵抗を減らすというものである.
そういう技術的進歩は分かるのだが,なぜ,九六式のほうが旧式で零式を冠した戦闘機が新型なのかが小学校低学年の私には分からなかった.
しかも,ゼロ戦にフロートを取り付け,飛行艇として運用された二式水艇という機体もバリエーションとして存在した.
型式の場合に零(0)という数字が使われうるのか.そのあたりの解説はまったくなかった.
西暦1930~40年代で昭和10年代,関連しそうな数字は全くない.
そういうことに興味を持っていた事すら忘れていたが,最近になって違うきっかけで思い出し,また,その二つが見事に合致したのである.

日本では,戦時中,敗戦まで元号によらず,かつ,西暦ではない年号が使われていたことに気付いたのである.
それは,神武天皇の即位を紀元とする皇紀である.敗戦による皇国史観の全否定によって使われなくなった.
初代神武~九代開化天皇が存在しないことが定説で,また,大和朝廷の成立が三~四世紀とされている事から考古学上も正しくはないとされている.
が,明治憲法以降,特に第二次大戦中,大日本帝国は,現人神である天皇がおわす神国であるという皇国史観が国の全てを支配していた.

ゼロ戦とこの皇紀が非常に関連が深いことに気が付いた.
皇紀2600年(西暦1940年/昭和15年)に制式採用された記念すべき海軍制式戦闘機が零式艦上戦闘機=ゼロ戦ということなのである.つまり年式である.
同様に先に紹介した九六式は2596年,二式水艇は2602年に制式採用された機体ということになる.
現在では皇国史観の否定で皇紀は一部の右翼政治団体のみしか用いないし,使用する事自体がドイツにおけるナチス同様一般市民には憚られるものである.
(1987年の朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行声明文の末尾に皇紀2647年と書かれていたような覚えがある)
しかし,ゼロ戦の解説をするなら誤った皇国史観と軍国主義への反省も含めた上で皇紀の年式であるとの説明も必要な事である.
まったくもって「臭いものには蓋」である.
(プロペラ戦闘機ファンのサイトには皇紀を併記して解説されている方々も少なくない)

昨今の日本と周辺各国との軋轢もこういう片手落ちなところが原因となって主張の行き違いがエスカレートしていることが多いように思えてならない.

2005年5月23日

整列乗車に物申す

ここ10年くらいで大阪でも整列乗車が定着してきた.大阪人もマナーが高まってきて結構なこと,と思われる向きも多いだろう.
ところが私は,以前から現状の単純な整列乗車の不合理を感じていた.
実は,鉄道会社の手前勝手な“貨物管理”ではないのかと特に最近思うのである.
プラットフォームのアナウンスに「階段付近に固まらずに」とか「中程の車両が比較的空いております」というのがよくあるが,
これを促すどころか妨げているのが,プラットフォーム上の行列なのである.

・停車位置が決まっているので,その前に2列で並ぶ.
 →ラッシュ時には当然のごとく列が長くなる.
 →プラットフォーム内の移動には“人の壁”を“何枚も突破”せねばならない.
・列の最後尾はプラットフォーム両端から列が延びて重なっているので実質ないに等しい.
 →空いたスペース=プラットフォームの縁を歩かざるを得ず,転落や列車との接触を招き,危険である.
・列と列の間は人の密度が低く効率的にプラットフォーム面積が利用されていない.
・列車到着時には扉の両側に列が崩れて横に広がる.
 →扉の片側を空けるようにアナウンスされているが効き目なし.
 →降車した乗客は左右どちらにも“人の壁”で袋小路である.
 →片側に寄ったとしても,降車客の進む方向によっては“人の壁”が立ちはだかる.

乗客にとっては,不都合さえあるがメリットはないし意味もあまりないのである.
乗客にはメリットがないが,逆に駅員にはそれまでと比べて大きなメリットができた.
それは,曲がりなりにも列らしきものがあるので,乗車を打ち切り易いのである.
あまり乗客にとって安全で快適とは言い難い条件を数多く揃えてしまうのが現状の単純な整列乗車なのである.
先の福知山線の転覆脱線事故と同根と思えてならない.
なぜならば,私は通勤に近鉄とJR環状線を利用しているが,整列乗車をうるさくアナウンスしているのはJRのほうであり,近鉄はさほどうるさくない.
近鉄とて混雑具合はJRに引けを取るものではない.
JRは,何を置いても定時運行至上主義で,乗客を人間とは扱わず,貨物と同等と考えているのではないかとさえ思えてくる.
安全第一の意味を理解できているとは思えない.
これは,言い過ぎとしても,線路に対して直角に並ばせるのではなく,角度を付けるなり,行列を折り曲げるなり,整列乗車の弊害を改善するための工夫をして欲しいものである.

安全第一とは,安全という言葉で工事現場や工場などでしか当てはまらないと思われがちだが,
安全とは作業環境を整えるということであり,実はデスクワークであっても当てはまる.
全て列記すると安全第一,品質第二,生産第三と続く.
作業環境を整えることにより,仕事がしやすくなって品質確保も生産効率向上も同時に図れるという実例(20世紀初頭のUSスティール社)に基づくスローガンなのである.
すなわちJR福知山線の事故は,全く逆で,安全を軽視し生産性を過剰に重視したがために,運転士全体の技能(品質)低下を招き,約2ヶ月運行停止(生産の停滞と損失)という結果をもたらしたわけである.
私自身,福知山線快速電車を通勤に使っていたこともあるので,決して他人事ではなかった事故である.

そもそも順番と秩序を構築するために整列乗車を行うのだから,
整列乗車するなと言っているのではなく,無意味で非合理的な整列をさせるなと言いたいのである.

2005年6月 1日

私のスタンス

今まで,あまりかつての「つれづれ臭」やこのブログには,政治の話やイデオロギーについては意図的に書いてこなかった.
興味がないのではなく,かなり興味があって議論し始めると止まらないくらいなのだが,わざと避けてきたのである.
しかし,一度,自分でも自らのスタンスを整理し再確認するために文章の形に書いておきたいと思う.

まず,私は広義で言うと右翼だと思う.
天皇崇拝ということで言うとかなり希薄だとは思うが,民族主義的思想は間違いなく持っていると思う.
“愛国心”というと大上段に構えすぎだし,意味合いがかなり異なってしまうのであるが,自分が日本人であることについては大切に思いたいのである.
これは,かねてから主張してきたが郷土愛と同根である.
人類平等の名の下に共産主義者が自国の伝統文化を否定し禁止するのはもってのほかだと考える.
誤解を恐れずに言うならば,間違いなく「日本は神の国」である.
アメリカ合衆国のような移民から成立した国は別として,国の成立過程の神話が存在する国はすべて神の国であると言える.

次に私は改憲論者である.
日米安保に反対する政党が,なぜ,第二次大戦後に日本を占領していたGHQが作成した憲法を守ろうとするのかが理解できなかったが,それが最近になってようやく分かった.
しかも,第九条だけを頑なに,なぜことさらに守ろうとするのか.
日本を占領下に置いていた頃は,合衆国もレッドパーチ以前だったので共産主義者がたくさんいた.GHQもご多分に漏れず,である.
そのGHQの中の共産主義勢力が起案したのが日本国憲法だったのである.だからアメリカ人が作ったにもかかわらず,そのことを現在の合衆国国民は知らない.
要するに,親分が作ったモノを子分が守っているだけである.財閥解体や農地改革で花を持たせてもらった恩義もあるのかも知れない.
日米安保は,レッドパーチ以後なので共産主義者を駆逐した敵しか残っていないのが合衆国の姿であるという認識なので反対していただけである.
自衛隊は,間違いなく軍備である.そして,現状では絶対に違憲の存在である.しかし,誰もが必要であるとは感じているだろう.
必要だと思うならば,存在を認めなければならない.存在を認めるためには,改憲するしかない.
領空侵犯,領海侵犯した他国の航空機や船舶を追い払うポーズしかできないのは,情けない話である.
誰だって泥棒に入られたら,話し合いでお引き取り願うなど馬鹿げたことはしないで撃退するのが普通だろう.
泥棒に対して話し合いを持ちかけたり,被害にあった後に警察に通報することしかできないという,憲法第九条が足かせになっている今の状態なのである.

戦後問題についての認識
もともと激烈を極めた日露戦争における戦死者を祀るために創設された靖国神社を,帝国憲法に代わる信教の自由を謳った現行憲法下においても流用しようとするのが間違いである.
なぜ,周辺諸外国が不快感を示すのかという理由が場合によっては明らかに言われ始めたのもここ5~6年のことである.
A級戦犯が合祀されているなどとは,それ以前にはどこの報道機関も通常のニュースでは言ってこなかった.
報道されるのは,国会議員や閣僚が参拝したということと周辺諸外国が抗議しているということばかり.
裁き方に問題があったにせよ,戦争犯罪者として断罪された者を神としているような形をとっていることが問題にされているはずなのに,それに対する説明が全くない.
戦犯合祀を無いことにして話すものだから,周辺諸外国ともまったく話がかみ合わないし,日本国民も騙されたままである.
だから,かつて「型式」と題して書いたときの結びのように“臭いものに蓋”で“片手落ち”だというのである.
しかし,自国民を戦車で轢き殺したり,少数民族を弾圧する政府を持つ国に,誇張した被害を60年以上経ってもなお申告して欲しくはない.

ただ,南京大虐殺や従軍慰安婦問題については,よく分からない.結論が見いだせないのである.
父親(1939年生)が幼少の頃に,大陸から復員してきた近所の人々が自慢話で何人殺ったとか犯ったとか話しているのを実際に耳にしたというのである.
それを言われると,書物から知識を得た私には反論のしようがない.
原子爆弾という新兵器をもって30万人を死に至らしめることがようやく可能だったのに,人力で40万人を殺すことは不可能であるという反論は空を切ってしまう.
ことの大小ではない.これだけは歯がゆい.
いつになったら,歴史学的に決着するのだろうか.
いつまでも中華思想に囚われた国にとって,日華事変もあくまで“倭寇”の一環であるという認識で,日本とは,いつまで経っても“倭国”なのだろう.
“東夷の倭人”ごときに蹂躙されたという屈辱と,倭人の主張など聞くに値しないという嘲りを政治に利用しているとしか思えない.

2005年6月16日

車内吊り広告の事情

関西の私鉄電車の車内吊り広告というのは,昔からおしなべて上品である.
グループ内の百貨店や遊園地,プロ野球チームの試合やファンクラブ案内,観光案内等が主だった物であった.
逆にJRや大阪市営地下鉄は,週刊誌の広告が多く,統一性がなく猥雑な印象を少なからず受けていた.
私の住んでいるところは近鉄沿線である.したがって,最もよく利用する機会が多いのが近鉄電車である.もちろん通勤で毎日利用している.
近鉄も上記の例に漏れずスマートなものであった.
しかし,最近になって車両の外側全部を広告に用いたり,車内吊り広告も,雑誌,とりわけパチンコ情報誌や女性週刊誌など見出しに刺激的で扇情的な言葉が羅列されたような物が増え,JRや地下鉄に印象が近づいてきた.
気になり始めると余計に気になってくる.
それまで雑誌広告がなかったわけではないが,ForbesやPRESIDENTといった経営者向けのものしかなかった.
自社グループ内の観光資源が減り,広告収入もグループ企業内でなく,外部に求めた結果であろう.
昨年,大きな話題となった近鉄バファローズで大きな赤字が続き,グループの足を引っ張っていた恰好となっていた.
さらに遊園地も玉手山遊園地に始まり伏見桃山城キャッスルランド,あやめ池遊園地が閉園となった.
残っているのは,日本最古の飛行塔を持つスカイランド生駒(生駒山上遊園地)のみである.
劇場関係もOSK日本歌劇団への支援打ち切りとともにあやめ池遊園地にあった円形大劇場閉鎖,および上本町近鉄劇場も閉館されている.
近鉄百貨店はどれも営業を続けているが,近商ストア(スーパーマーケット)は閉店したところもいくつかある.
阪急は,上品なスタイルを守り続けている.宝塚ファミリーランドは閉園となったものの,阪急百貨店,阪急系映画館,宝塚歌劇団等が健在である.
車内吊り広告は,鉄道会社の経営状態を量るバロメータなのかも知れない.

2005年7月11日

バリアフリーも良いけれど

小さな駅から大きな駅にいたるまで,バリアフリー化を目的としてエレベータやエスカレータの設置工事があちこちで行われている.
もともとエスカレータがない階段に並べて設ける場合が多く,階段が狭くなり行き違いができなくなる.
場合によっては階段を使うよりもエスカレータの方が流れがスムーズだったりするが,だからといってそちらに流れると局部的に混雑が酷くなる.
たいていの場合,動線上,階段よりエスカレータのほうが移動経路の手前側にある.
混雑を避けるために階段で上ることが混雑の塊を突破しなければならないために困難になってくるという矛盾が生じる.
エレベータもプラットフォームの幅方向の真ん中に陣取るためにプラットフォームを歩く立場からすると邪魔で狭くなっているので危険である.
既存の駅に後から手を入れるのであるから白紙の状態からの計画に比べて相当に難しいことは重々理解している.
それに,そもそもが障害者の方々の負担を減らすのが目的であることも十分に分かっている.
しかし,それが原因で人の流れが滞留するのはいかがなものかと思う.ひいては障害者の方々の移動にもその滞留が支障をきたすのである.まさに本末転倒である.
だいたい,健常者が駅構内の昇降にエレベータを使うとは何事か.
一般の建物の階高よりは格段に高低差があるが,たかだか一層である.エレベータを呼んで待っているよりも階段で下りた方が早いだろうが.
しかもエレベータ前まで走っていく大馬鹿者がいる.そんな元気があるならば,そのまま階段で下りてしまえ,と思うのだが.
そのために本当にエレベータを必要とする人が順番待ちをしなければならないのである.
こんなにおかしいことはない.
ICチップ付きカードやFelica付き携帯電話も普及し始めているのだから,駅のエレベータは非接触ICチップ付きの障害者手帳や老人医療給付証で呼びボタンを作動させるなどの工夫はできないものだろうか.
けがや病気療養中ならば,病院の診察券を使っても良い.
鉄道会社も,一度エレベータを動かすと一人分の初乗り運賃が軽く消し飛ぶほどの電気料金に悩んでいるのだから,手をこまねいているわけにはいくまい.

2005年7月19日

気持ちはあれど

私は,比較的献血に行くことが多いことはたびたび書いている.
私の余剰血液を必要な方に使ってくださいなどと,自己犠牲や奉仕の精神は全くない.
何ヶ月かに一回の血液検査のつもりで,その検査の代償を血液で支払っているような恰好かもしれない.
それで血液を必要とされる方に利用していただければそれでよいという程度のものである.
無料で飲物も取り放題であるし,気軽に行っている.

一方,最近,芸能人でも白血病を発病する人がよく見受けられる.
骨髄性白血病の最も有効な治療法は骨髄移植である.
公共広告機構でもPRされているとおり,骨髄液の型が合う確率は親子でも兄弟でも25%であるので,多数のドナー登録を呼びかけている.
自分の骨髄の型を知る上でもドナー登録しておいても良いかなと考えたことはあった.
しかし,ドキュメンタリー番組で見たのだと思うが,ドナーから骨髄液を採取する映像がショッキングだった.
1ヶ月前に自らの輸血用の血液を採取した後,骨髄液採取には数日の入院を要し,全身麻酔をする.
骨髄液を採取するために腰に杭のような注射針をハンマーでガンガンと打ち込むのである.
その手術に関する提供者のリスクが献血と比べると桁違いに高いのである.医療事故が起こると下半身不随になる.
その映像を見てから10年は経過したと思うが,恐らく採取方法はほとんど変わっていないと思われる.
危険性もさほど変わっていないだろう.
もちろん,注射針を身体に刺すわけであるから,献血ですら感染症その他のリスクが多少はある.
それこそ,献血レベルにまで危険性を下げなければ,ごく近い家族などに骨髄液を提供する以外は,安心してドナーにはなれない.
白血病に対する最も有効な治療法で,多数の患者が移植を待っているとしても,だ.

もし,危険性が明らかに下がり,献血レベルに下がっているならば,お知らせいただきたい.
迷わず骨髄バンクに登録したいと思う.

2005年7月28日

健康保険証の不思議

健康保険には,国民健康保険と共済系があるが,共済系は,時季的なもの,例えば風邪をひかなかったら“ご褒美”がもらえたりする.
そして,トータルで一定期間,医師にかからなかった場合にも“ご褒美”がもらえることがある.
これがまた非常に矛盾している.
定期健康診断は各事業所に義務づけられているから良いとして,歯の定期検診等は任意である.
その任意の検診を受診すると医療行為を受けたことになり,“ご褒美”はもらえない.
“ご褒美”をもらえるほど医師に診てもらわない場合のリスクというのは,対投資効果のような視点で見た場合かなり大きい.
健康管理に気遣い,こまめに検診を受けるか,見せ掛けだけの医者要らずを取るか,である.
歯の健康に関しては,自覚症状がないままに病状が進んでしまうのが厄介なのである.
気付けば歯周病が歯槽膿漏にまで進んで,歯が使いものにならないこともままある.
医療行為を受けても,治療か検診かを明確に分けて欲しいものである.
現在行われているような評価は,腑に落ちないし,気持ちが悪い.
“ご褒美”をもらえるもらえないではなく,健康チェックをするがゆえに健康に過ごせなかったと評されてしまうのが納得できないのである.

2005年8月 3日

神の思し召し

私は,基本的に(カルト)宗教は嫌いである.超自然的な存在としての神は否定する.しかし,神話の類は物語としては大いに興味を持っている.
なので,いにしえより心の拠り所とされている方々については,否定したり非難したりするつもりは全くない.

私は,技術者として企業に勤めている.
工学という自然科学の一分野の末端に居るわけである.
私は,昔から自然=神だと思っている.しかし,マザーアースやガイア理論とは少々趣を異にするように思う.
三平方の定理で有名なピタゴラスも実は宗教家だった.数学は宗教活動だったのである.それに近いかも知れない.
自然科学というのは,つまり神からのメッセージを読み解くこと.

先のJR西日本の事故のような大きなことや,小さなことでは私の職務の上でのクレーム発生など,これらは物理現象である.
つまり,これらは,神=自然現象の軽視あるいは無視が神罰として下ったものではないかと思うのである.
クローン技術が神への挑戦や冒涜と表現されることが多いが,そのような直接的なことだけではない.
ダイオキシンや内分泌攪乱物質(環境ホルモン),オゾン層を破壊し,かつ,温室効果係数も高いフロンガスなどの自然分解が困難な化学物質,石綿(アスベスト)の問題も,物質自体は,自然現象としては理論通り成り立っている物である.特にアスベストは天然鉱物である.

しかし,結果として直接的・間接的に天然の生態系を狂わせたり,人間その他の生物の生命・種族維持をも脅かすことになっている.
これは,神からのメッセージ(=自然法則)を読み下すことができても,読み落しがあったり解釈を誤った結果ではないのだろうか.
自然科学の話をしているのに表現が文学論のようになっているのは矛盾しているかも知れないが,ご容赦いただきたい.
自然科学の研究者や技術者は,神からのメッセージを受取り,正しく解釈し,民衆に伝えるという役割を担っているのだから預言者でなくてはならないのではないか.
言者とは,例えばユダヤ教におけるモーセ,イスラム教におけるマホメットがそれにあたる.予言者ではない.
ただ,自然=神とした場合,解釈の相違(違う角度からの探求はある)で宗派が分かれることは絶対に許されない.
自然現象には,必ず因果関係があり,複雑な条件があっても,突き詰めれば一対一でしかないからである.
現在でも未解明なことの多くは,複雑に絡み合ったことを解きほぐして分離する手法が見つかっていない事象が多いだけの話である.
こうした意味で,宗教であっても真理は一つのはずなのに分派やカルトが発生するから,宗教には身を委ねようとは思えないのである.

事故や災害に遭うのは,星回りや行いが悪いのではなく,好むと好まざるとにかかわらず神の意志(自然法則)に反することに身を委ねている結果なのではないだろうか.
これが私の宗教観である.

2005年9月 6日

おばはんの安全意識

幼児の96%ヘルメットなし 自転車同乗の負傷事故

 幼児を自転車に同乗させたことがある保護者の95・4%が幼児用ヘルメットを着用させず、13・1%が転倒などで幼児の負傷を経験していたことが、全日本交通安全協会のアンケートで6日までに分かった。負傷した幼児の96・3%はヘルメットを着けていなかった。
 一方で、幼児のヘルメット着用義務化について保護者の過半数が「なじまない」などと消極的な回答をし、後を絶たない“ママチャリ”事故の実際と安全意識の乖離(かいり)が浮き彫りになった。
 警察庁は「保護者への安全教育の充実とヘルメット着用の啓発活動を推進する」としている。
 調査は2~3月に、全国の幼稚園や保育所計80カ所に通う幼児の保護者を対象に実施。7194人が回答した。
(共同通信) - 9月6日7時56分更新

ところでさすべえをご存知だろうか.
大阪のおばはん御用達の自転車外出時の必需品となっている.
商品の目的は,傘を差しても片手運転にならないという安全グッズということ重宝されているようであるが,自動車で商店街を運転する者にとってはこれほど危険を誘発するものは無いと考えている.
片手運転は確かに危険である.しかし,手で傘を持っていれば,よけることができるものが,ハンドルに傘が固定されているので,接触したり引っ掛かったりするとそのまま転倒してしまうのである.
特に夏季には,さすべえで日傘を差して我が物顔で走る傍若無人なおばはんで溢れ返る.
自動車よりは自転車のほうが交通弱者なので事故が発生すると自動車側に責任が負わされる.自転車が明らかなる危険行為を堂々と行っているのにもかかわらず.
死亡事故にまでは発展していなかったり届けるほども無い接触程度の事故は,かなり多発しているはずである.
警察庁や国土交通省で,“さすべえ”について調査・実験の上,禁止して欲しいものである.

おばはんとは,年齢で定義されるものではない.行動パターンである.

2005年9月12日

良くも悪くも

日本人は基本的に独裁者を嫌う.しかし,社会の変革期には,時代の要請として必要とされる.
また,話し合い絶対主義であり横並びを良しとする.国民性の根本から談合体質なのである.また,"御上の意向"に弱い.
朝廷の合議制然り,鎌倉・室町幕府の侍所然り,江戸幕府の老中然りである.
天皇あるいは執権や将軍の強権発動は,平常時は存在しない.
強権発動を辞さない指導者が存在し得たのは,制度疲労の極致に達したときである.後醍醐天皇,徳川吉宗,井伊直弼などが該当する.
(実は,昭和の第二次大戦時にすら該当人物はいない)
どれも最初は歓迎されるが,改革が成功したとしても懐刀的な部下以外には見捨てられ,英雄となることはないのが日本の社会である.
良政であれば権力が一人に集中する独裁自体は決して悪ではないと考えるが,日本人は良政を執っていても嫌う傾向がある.
市民革命も起こったことはなく,せいぜい一揆か強訴である.安保闘争以後は,それらしきものも起こらない.

さて,今回の総選挙であるが,ご存知のように自民党内の派閥を嫌い,国鉄・電電公社の民営化から取り残された郵政に執着した小泉純一郎の勝利(果たして与党の勝利と言い切れるか?)に終わった.
衆議院の解散から自民党公認候補の擁立に至るまで,独裁者の印象がどうしてもついて回る.
“独裁者”と,反対派や野党,マスコミがレッテルを貼って非難しようとも,国民はそんな人を総裁として頂く自民党を与党として選んだ.
時代の要請と言うほかに言い様が無い.何もかも閉塞状態になり,この人以外に託しようがないと思ったのだろう.
頭に置いておかねばならないのは,選挙戦中,与党は郵政民営化以外には何も言っていなかったことである.
各野党は,それに引き摺り込まれまいと,あれこれ言い過ぎ,印象が希薄になってまんまと術中にはまってしまったことは否めない.
おそらく,自民党に票を投じた人々は,「こんなはずでは…」と後々思うのではないだろうか.
連立与党の勝利ではない根拠は,自民党が単独過半数を確保でき公明党が微減したことである.投票率が上がったことも要因としては大きい.
公明党は,開票後のコメントで恩着せがましいことばかり言っている.
せっかく単独過半数なのだから議席数2/3は諦めて自民党には公明党との連立政権を早々に解消して欲しいものである.

私自身がどういう票を投じたかについては明かさない.国民審査は宣言どおり全員ペケである.

2005年9月14日

サムライ

昨年は劇場映画で武士をテーマにした作品が海外でも話題を集めた.
武士のことは海外でもサムライと呼ばれて浸透している.
サムライとはどのようなイメージでとらえられているのだろうか.
日本文化のダンディズムの代表でストイックな一匹狼だったりするのだろうか.何がきっかけなのだろう.黒澤明の映画だろうか.
この外国人がとらえるサムライというのは,どうも間違えていて,それにつられて日本人も正しく理解していないのではないだろうか.
サムライは漢字で書くと侍である.
この字は現在も使う.「人をらす」とか,従と呼ばれる人たちが宮内庁の職員の中にもいる.
侍とは,“さぶらう”が名詞化したもので「そばにいる人」という意味である.侍女をサムライ・レディなどとは言わないだろう.
つまり,サムライを英語的に解釈するとBody Guardである.決して一匹狼ではない.貴族に付添う“武装したお付きの人”である.
武家政権は,平安時代末期から明治維新前まで約700年間あったわけだが,武士が政治の実権を握っても決して朝廷を滅ぼすことはなく,権力の二重構造が続いた.
しかも,朝廷に常備軍がないことにつけこんだ,律令にはない非合法の軍事政権,それが幕府である.
そもそも鎌倉幕府は武士の組合が圧力団体化し,そのまま政治を執ったようなものである.
このような政治の二重構造は日本でのみ見られた現象である.あくまで武士は朝廷を守るものという不文律の大原則があったためである.
平氏と豊臣氏の失敗は朝廷そのものに入ろうとしたことである.

武士道倫理を説いたと言われる,鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』に「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があるのは有名である.
“武人”として捉えるのであれば,“さむらい”よりも武士・武者の和語表現“もののふ”という言葉に,私は,誇り・プライドを含んだものを感じる.

NHK大河ドラマでいくつか印象に残っている台詞がある.
『炎(ほむら)立つ・第一部』で,奥六郡の実質的支配者・安倍氏討伐(前九年の合戦)のための朝廷軍として参戦していたが義弟平永衡が源頼義に謀殺されたことを知り,妻の親元安倍氏側に寝返る際の藤原経清の言葉.
「今の国を国とは思わん.すべては奥六郡の黄金に目が眩んだ欲の亡者のなせる戦じゃ.その手先となって死ぬるは,もののふの本懐にあらず.
その国のために命など捨ててどうする.まずは,妻や子のため親のためにもののふとして生きるのだ.男として生きるのだ.」
また,安倍軍が大勝した黄海(きのみ)の戦で,安倍軍の姿に身をやつして敗走するかつての部下に経清がかけた言葉.
もののふにとって,義のない戦ほど切ないものはない.」
『八代将軍吉宗』で,紀伊藩財政建直しのために質素倹約を旨とし藩主自ら率先垂範して冬でも木綿の着物で通す紀伊吉宗が将軍綱吉に寒くないかと問われて切った見栄.
「吉宗はもののふにござりますれば」

実際のところ,外国人には“もののふ”は発音しにくいだろうとは思うが.

物部と もののふ は語源としては同根だそうである.

苗字と姓

これにまつわるテレビ番組が放送され,前半だけ(NHK「ためしてガッテン」のテーマが舞茸だったからである)だが興味深く見ていた.
苗字の起源についても説明されていたが,最も根幹の部分が説明されていないような気がした.
標題に上げた“苗字”と“姓”の違いについてである.恐らくは姓について詳しく取り上げると身分差別の問題が生じてくることが懸念されるからであろう.
現在,日本人は天皇家を除いて苗字を名乗っている.
大雑把に言ってしまえば,苗字は通称で氏・姓は血統(あるいは古代に豪族が朝廷から与えられた役職)である.
ということは,本来は姓と苗字を持っている人と苗字しか持たない人の二通りがあると思われる.
また,江戸期には苗字を名乗ることが禁じられていただけで,実は苗字を持っていて明治期に堂々と名乗ることができるようになった例もあるだろう.
私の家系は,江戸時代でも苗字を名乗ることは許されていたが,恐らく姓は持っていないと思われる.しかも当時と現在とでは読みが違うのではないかとも思う.
国民全て苗字を名乗ることが義務付けられた明治時代に苗字と姓の違いを明確にしなかったことが原因である.
すなわち,“佐藤”“加藤”“伊藤”であるからといって必ずしも摂関藤原家と同根の血筋とは限らないということである.
一族郎党が主人にあやかって明治期に拝借したものかもしれない.
例えば,現在も残る家柄である,鷹司家や冷泉家の姓は藤原である.しかし,明治以降の戸籍上は藤原ではない.
今となっては,ただ単にそれだけのことである.
しかし,古代や中世・近世ではそうはいかない.
摂政・関白は藤原氏でなければならなかったし,鎌倉幕府成立後,将軍は源氏でなければならなかった.
足利氏は,八幡太郎義家を祖としているため源氏の血筋なのははっきりしているが,徳川(松平)氏が新田氏(足利氏と同じ源義家が祖)を祖としたのは,将軍宣下のためにでっち上げたものと言われている.
羽柴秀吉は,藤原姓を金で買い関白太政大臣の地位を手に入れた.
江戸幕府成立直後に,伊達政宗が娘婿・松平忠輝を擁してクーデターを企てていたといわれていることもこれらに根ざしている.
伊達氏は,藤原姓の中村朝宗が源頼朝の奥羽遠征に参加した際の論功行賞で出羽国伊達郡を賜ったことが起源である.そして松平氏は前述のとおり源氏を名乗っていた.
すなわち,武家の頂点に立ったところで政宗への将軍宣下はありえないことが明白だったので,忠輝を将軍として戴き自分は関白として政権を取る野望を抱いていたということである.
“氏素性”とはこういうことである.

最も興味深いのが,志半ばで倒れた織田信長はこの血統という不文律をどう解決あるいは打破するつもりだったのだろうか,ということである.

2005年11月10日

献血も危険か…

献血で健康被害、5万人超 治療費支払いの制度化検討

 2004年度に献血した延べ約540万人のうち、めまいを起こしたり、気分が悪くなったりした人が5万6500人余りに上っていることが2日、厚生労働省の献血に関する懇談会で報告された。
 治療が必要とされ医療費や交通費を受け取った人は802人いることも判明。厚労省は、これまで各地の血液センターが独自の判断で支払っていた医療費や見舞金を見直し、制度化することを検討している。
 医療費や交通費を受け取った802人のうち最も多かったのは、採血時の神経損傷で29%。次いで皮下出血が17%だった。続いて、採血への不安や緊張が引き金になってめまいや意識不明に襲われる血管迷走神経反応(VVR)が12%。VVRによる転倒が15%。採血針でけがをして筋肉が委縮する難治性の反射性交感神経性委縮症(RSD)も1%あった。
 入院が必要だったのは6人で、通院が780人だった。
(共同通信) - 11月2日11時57分更新

なんと献血を行った人の1割強がなんらかの不調を起こしているのだ.私は過去37回献血を行っている.
表彰されるほどであるのでいわばベテランである.無論全くトラブルはない.
そういえば,職場で半年に一回ほど献血車が来て献血を募っていた.
あるとき同期入社の女の子と同じ時間に献血に行ったところ,変な痛みを訴え,後日病院に行くと神経が傷ついていたそうである.
年度は違うが,802人中の29%だったわけである.身近に起こったということでやはり最も多いトラブルなのだろう.

最近2回ほどは,乞われてご指名で献血に行っているわけで,待ち時間なく終わっているのであるが,なんとなく献血ルームに行くと1時間半待ちである.
真夏と真冬には献血は極度に減るという.そんな風に広告されているので行ってみてもやっぱり1時間待ちである.
渡英歴があったら控えてくれとかいろいろと最近は制限が付いて血液不足が危惧されているのにもかかわらずである.
根本的に献血施設が足りないのではないかとも思う.混雑するが故に作業が杜撰になっていくのではないか.

そんな中,大阪・梅田には阪急グランドビルに加えて西梅田にも一つ献血ルームがオープンした.
近いうちに行ってみるつもりである.

2005年11月16日

名前を呼ぶな

先日の皇室の慶事で,天皇家の長女が皇籍離脱して「紀宮さま」だったものが翌日から「黒田清子(さやこ)さん」と呼ばれるようになった.
これは,自然なことであり何ら問題はない.

もう一方で,天皇家の悩みの種は解決の様子がまだない.
後継者の問題であり,皇太子妃の健康状態である.
その後継者についてであるが,マスコミの不敬が目立つ.
何が不敬なのか?名前で呼ぶことである.
本来ならば,「敬宮(としのみや)さま」と称するべきである.現にこれまで前述の通り「紀宮さま」と称し「清子さま」とは呼んでいなかった.
形式上のことであっても目上の人に対しては極力名前は呼ばない.
日常生活でもそうである.勤め先でも上司に対して,役職「部長」や「課長」などで呼んでいる.
古典文学を読んでいても思い当たる部分は多々ある.名前を呼ばせるということはその相手に全てを与えることに等しい.
何もこれは日本だけのことではない.世界各地に見られる.
例えば,神話である.
創造神の名は,明かされるものではない.神は自らの名を他の者に呼ばれることによってその力を失うのである.
モーセの十戒の一つにも神の名を呼んではいけないというのがあったように思う.
この世界共通の不敬を日本放送協会までもが犯しているのである.標準語の原器的機関を標榜しているはずなのに.
おかしな日本語,正しい日本語というのが流行っているが,表現のようなハード的なことだけではなく,こういったソフト的なことも危機的な状態にある.

まとめると,敬称として“さま”を用いるくらいならば,名前を呼ぶようなことは不敬として強く徹底して意識しなければならないし,
それをしないのであれば,共産党のような態度をとるべきである.
先の大戦のときのように御用機関であってはならないという反省があるのならば.
もともと,報道機関の存在意義自体が共産主義的なもののはずである.


また,女帝云々の話もあるが,これも不敬の至りである.そんなことはいよいよの時に考えればよろしい.自衛隊の海外派兵も拡大解釈で押し切ってきたのである.
いかにも皇太子妃は,もはや子供は産めない望めないと決めつけている.これもとんでもない不敬である.不敬でなければ公にされたことなのか?
この意見を問題の先送りだというのであるならば,最初からいくら名家であってもエリート外交官を引き抜いてまで嫁がせるべきではなかったのである.
宮内庁のメンツを保ちたいだけ,体裁の偏重も甚だしいだけである.
奈良,平安の昔のように好き放題やっていただけば良いではないか.洋の東西を問わず,もともと皇(王)族・貴族などはそういったものである.
しかも誤解を恐れずに言えば,日本人であっても日本国民ではないのだから民衆に適用される法律に従う必要はない.
それをとんでもないというのならば,天皇制は廃止するべきである.
英王室をはじめ,他の王国のように政治に直接的に関与するわけでもなく,ただ,憲法に統合の象徴と記されているだけ.
天皇制の廃止をしなければ,本当の意味での小さな政府への移行はできない.日本における究極の構造改革である.

ただし,象徴天皇制であっても,共産主義体制への転換の重しとなっているだけで十分な役割を果たしていることは付け加えておく.
また,妹が大学の一般教養の講義で聞いてきた話であるが,宮内庁を文部省(現・文部科学省)の下に置いて皇室を重要無形文化財保持者(家)としたらどうかというのである.
私もこれは面白い案で非常に良いと思っている.
皇室がなくなれば新嘗祭や歌会始といった宮中行事も行われなくなるのでもったいない話である.
ならば,形のない文化遺産を伝承する家系として残せば良い.
実際,皇族の諸々の公務は文化・スポーツの振興が多いので文部科学省の管理下に置くのはうってつけである.
天皇陵とされている古墳の調査も進んで考古学の発展にも寄与するだろう.

2005年12月24日

お国訛りの不思議さ

少し前から,東京の女子高生の間でインチキ方言が流行っていると話題になっている.
他愛のないことで結構だと思う.
ところがインチキ,いや,真似事に過ぎないので,アクセントやイントネーションによる真の面白さまでは作り出せない.
方言,いや,お国訛りで面白いところは音便化に伴うリダクションである.
タモリ氏や武田鉄矢氏が博多弁で「ととと」や「すすす」で済むことがあると昔からテレビ番組でよく言っている.
大阪弁で類する面白い語感で同様に昔からよく言われているのが,茶色い大型のムク犬を目の前にしているシチュエーションがある.
A:「なーなー,あの犬,チャウチャウちゃう?」(ねえねえ,あの犬,チャウチャウと違う?)
B:「え~?チャウチャウちゃうんちゃう?」(え~?チャウチャウとは違うんじゃない?)
これはよく聞く話だと思うが,私が今,押したいのはナ行繰り返し語である.
「なんなん」「ねんねん」「のんのん」である.残念ながら(~)「にんにん」「ぬんぬん」は無い.
「にんにん」は忍者ハットリくんにお任せする.

シチュエーションとしての用例は,自動車数台で男女混合でスキーに行ったとする.
夜中に出発して夜明け前に目的地に到着し,仮眠を取ろうかというときに出てくるだろう.
男女が同じ車内で眠ることに多少差し障りがあったとして,グループ内の車で人が移動する.
窓ガラスをノックしたのに車内の者が気付いて「何なん,乗んのん?」
車外の者は「寝んねん」という具合である.
すなわち,
「なんなん」は「何なん?」(何なの?)
「ねんねん」は「寝るねん」の音便化で「寝るんだよ」
「のんのん」は同様に「乗るのん?」の音便化で「乗るの?」

「~ねん」は「~だよ」の意味の接尾語でこれを入れるとナ行の動詞が俄然面白くなる.
関西以外の方々,次のフレーズ,どういうシチュエーションか一度考えてみてもらいたい.
なんにんぬんねん
(ヒント:うんざりして絶叫してみると理解できるかも)

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2006年1月20日

写真機はどうなっていくのか

年が明けて,まず,ニコンがフラッグシップ機であるF6と入門機FM10だけを残して,事実上の銀塩フィルムカメラ撤退を発表した.
F6はともかく,FM10はFマウントを採用しているというだけでボディはコシナ製である.
残すのであれば,機械式カメラとして純度が高いFM3Aにすべきだったのでないだろうか.もはや風前の灯といわざるを得ない.
ニコンは数年前に機械式カメラの設計技術伝承と組立・修理技術維持のためにS3を復刻して気概を見せてくれたばかりであるのに.

また,コニカミノルタはカメラ事業から全面撤退を発表した.
コニカのフィルム,ミノルタのカメラが途絶えてしまうことになる.
コニカ(小西六)のフィルムはかつてサクラカラーのブランド名で有名だったし,1980年前後はAFコンパクトカメラ“ジャスピンコニカ”,また1990年前後には“HEXER”で高級コンパクトカメラあるいはレンジファインダーカメラ復権のブームを起こした.
ミノルタもロッコール・レンズとMF一眼レフXシリーズやAF一眼αシリーズでへヴィユーザーを持ち,高級コンパクトカメラの先駆け,ライツ・ミノルタでも名を馳せた.
αシステムはソニーに譲渡され,残っていくことになるが,ロッコール・レンズはどうなるのだろう.

インスタントカメラやAPSがデジタルに取って代わられ,移行していくのは無理からぬことだと思う(APSは何のために出てきたのだろうか?)が,大判,ブローニー判や35mmシステムは何としても残していってもらいたいものである.
ISO100の感度を持つ35mmフィルムをデジタル写真の解像度に換算すると1200万画素に相当するそうである.
エントリークラスのカメラでは,イニシャルコストもランニングコストもまだまだ追いつかないレベルである.

私はクラシックカメラのコレクターでもマニアではない(クラシックカメラの本を見るのは好きである)が,古いライカがデジタルカメラとして利用できたらクラシックカメラファンの人たちはどう思うだろうか?
何年か前のフォトキナのレポート記事で参考出品と言う形ではあるが,35mmフィルムのパトローネ形デジタルカメラエンジンが出品されていた.
既に,大判,中判カメラやライカR8/9にはデジタルバックというアタッチメントが出ているらしいが,非常に高価なものである.
WEBページをいろいろと見ていると『たのみこむ』でNikon F3用のデジタルバックをという提案もあったが,おそらく純正メーカーが作らないことにはどうにもならないだろう.
ならば,サードパーティでよいから35mmフィルムカメラならどれでも利用できるような一般化した汎用製品をと思うのだが,やはりレリーズと記録のシンクロナイズが困難なので無理なのだろうか.

Mamiya 6, Canon 7s, Nikon F3/NewFM2/F90X/F601を所有しているが,写真機そのものは健全なのに使えないという状態になることだけが心配である.
フィルムはなまものなので買いだめするわけにはいかないのだ.

2006年3月25日

RISING SUN

英語で「日の丸」である.

トリノ・オリンピックがあり,トリノ・パラリンピックがあり,各冬季スポーツの世界杯が行われた.
そしてWBCが開催され,日本チームの優勝で幕を閉じた.
同時に卒業式の季節である.またぞろ,新聞の端々に国旗・国歌の掲揚や斉唱についての是非の非難が書かれている.

スポーツの大きな国際大会があると大いにナショナリズムが昂揚されるものである.特にWBCでは誤審騒ぎが拍車をかけた.
オリンピックにしろ,WBCにしろ,試合中継や選手へのインタビュー等でしきりと「日の丸を背負って云々」という言葉が聞かれた.
サッカー世界杯でも言われるであろう.

卒業式での日の丸・君が代の問題になると目くじらたてるのに,なぜ,スポーツの国際大会で日の丸掲揚・君が代斉唱となると何の非難もされないのか.
非難する人々は,必ずといって良いほど左翼系である.
帝国憲法下で軍部が日の丸と君が代のもとに過ちを犯したことは確かにそうだろう.
しかし,考えてみて欲しい.
かつての共産・社会主義国家は自国の国旗を赤地にしていることが多かったり,共産主義者のことを侮蔑的に“アカ”と呼んだりするが,そもそも共産主義国家建設が最初に実行に移されたロシア革命で打倒されたロシア皇帝のシンボルカラーが赤色なのである.
すなわちソビエト共産党が仇敵である帝政ロシアのシンボルカラーを拝借したことになる.新たな道を歩もうと全否定して別に作ったのではないのである.

ならば,同じ左翼の思想を持っているのならば親玉に倣って日の丸・君が代に対しても解釈を新たにして平和のシンボルとして掲げようという,柔軟な考えは出てこないものだろうか.
もともと日の丸というのは薩摩藩が船の識別用に掲げたのが最初である.
そして君が代の「君」は決して君主を指すのでなく現代語と同じく“君=伴侶”で恋歌なのである.

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2006年3月31日

物事は疑ってかかれ

「ニセ科学シンポ」血液型性格診断など議論 愛媛大で開催へ

実は,私自身が権威に弱いのである.
「何々のオーソリティ誰々が言っている」と言われればそれに追従してしまう.
以前に,マイナスイオンが眉唾であることを書いたことがある.その件でも,友人にもらった化学学会誌記事のコピーを基に論じているのである.
自分では,研究できないので比較的信頼がおけるであろう何かを拠り所にしないと仕方ないのである.

“科学”とはどういうことかというと,調査分析の結果をそのまま出すことではない.
あらゆる状況から推理して一つの仮説を立て,実験や数理的証明を行い,また,他の研究者との議論や反証で洗練させていくものである.
(一言に科学と言ってしまっているが,この場合は自然科学を対象としている.突き詰めれば社会科学も人文科学も物理現象や数理的解析を用いなくとも同様の姿勢で研究されていることは言うまでもない.)

“ニセ科学”には,その反論という過程を全く経ていないように思われる.
「昔から言われているから」「社会的経済的に信用がおける一流企業が販売しているものだから」という理由だけである.
各家電メーカーが販売する“マイナスイオン”商品は信用できて,怪しげな白装束の団体が言う“スカラー波”は信用できないのはなぜか?
一般大衆が,権威者に対して思考停止しているからに他ならない.
“ニセ科学”というよりも“現代的迷信”である.

別に「人を見たら泥棒と思え」とは言わないが,反論ならずとも質問をしたうえで納得して気持ち悪さを解消したいとは思わないのだろうか.

少し前にあったニュースでは,地球環境問題に興味のある人を対象にしたアンケート調査で,
地球温暖化の主原因はフロンガスだと思っている人が半数を超えていると言う結果だった.
フロンガスは確かに温暖化係数の高い物質であるが,誤解された因果関係が秀逸である.
「フロンガスがオゾンホールを作り,紫外線が地上に到達するので温暖化に繋がる.」と言うのである.
地球環境問題に興味がある人がこのていたらくである.
言うまでもないが,
「フロンガスのオゾン層破壊により,紫外線が地上へ到達することによって,皮膚癌や眼の障害発生の危険性が著しく高まる.」
「二酸化炭素濃度の増加によって熱の宇宙空間への放出が阻害されるために温暖化が進行する.」
というのが公式見解である.
大衆は,いかに表面的で短絡的にしか捉えていないかが分かる.

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2006年8月 9日

ご用心

立秋が過ぎ,暦の上では秋であるが,連日,厳しい暑さである.
まさに故・桂枝雀師が夏の厳しい陽ざしの描写で必ずやっていた,後頭部に手をかざして「お日ぃさんが,かぁーっ!」である.

夏になるとここ数年というもの熱中症の注意なんかが,毎回気象情報で言われている.
特に言われるのが,水分補給.
ところが,注意したいのが飲料の選び方.
お酒の好きな人なんかは,仕事が終わった後には冷たいビール!と言いたいところだろうが,誤り.
アルコールが苦手な者でも注意しなければならない.
私はこの点に特に注意しなければならないのだが,アイスコーヒーや緑茶・紅茶等は避けるべきである.
ビールにも通じるのだが,利尿作用があるため水分やナトリウムを排出する方向にはたらく.
スポーツ飲料も糖分が気になったり,それでなくとも甘いと後口が悪い.
味はともかく,薄い食塩水やにがりを混ぜた水が最適ということなのだろうか.

しかし,日本人は暑さに弱くなってしまっただけのように思えて仕方がない.
最高気温自体は,私が小中学生だった20年前ほど前とさして変わらないように思う.
当時,私は,風通しの悪い体育館でしかも分厚い道着と防具に身を包んで夏休み中クラブ活動で剣道をしていたのである.
にもかかわらず熱中症にも脱水症状にも陥らず,何ともなかった.
空調機器に慣らされてしまっているだけに過ぎないのではないか.
私の部屋には空調機はない.未だに扇風機のみで暑さを乗り切り,かつ,健康である.
しかし,日中の最高気温はともかく,熱帯夜だけは勘弁して欲しい.
都市の構造物の蓄熱容量と空調機器の排熱.これが元凶である.
せめて夜間は,空調機器の運転は停めるように努めて欲しい.
悪循環を断ち切るために.

2006年8月12日

終戦記念日を前に

私自身の思想的立場は,政治的には中庸(民族的には右寄り)だと思うので両側の人々からは,あっちへフラフラ,こっちへフラフラな印象を持たれてしまうことは否めない.
ということを先にお断りしておく.

最近ようやく悟ったことなのであるが,
自分がある考えを持っているとして,自分の意に添った本を読んだり主張を聞いたりするのは心地良いので,それに身を委ね,持論を強化しようとするわけだが,それでは,養老孟司氏の言う「バカの壁」を高く分厚く積み上げていくだけに過ぎないので相手の言うことなんか聴こうともせずに互いに主張を強調しあうだけで終わってしまう.
私が小林よしのり著『いわゆるA級戦犯』は読みたいとは思っていても躊躇する理由はここにある.
非常にしんどく,苦痛を伴うことだが,むしろ,逆の考えに十分に耳を傾け,理解に努めなければならない.
もちろん,理解というのは自分にとって不合理と思われることを受け入れることではない.
相手の立場に立つことによってその論拠の欠点を具体的に認識できるのだ.それで揺らぐような持論は弱かったということに帰着する.
「朝まで生テレビ」は,討論会ではなく問題提起が目的のプロレスなので,視聴者はそれぞれの主張の応酬を楽しんでいれば良く,結論は求めてはいけない.
めいめいに大声で独り言を言うのが討論会であるわけがない.

矛盾点があろうが嫌いだろうがどうしようが,無理な戦争を継続してしまった国家の指導者には,極東軍事裁判で判決が下ってしまっているのだ.
名誉回復の件はあくまで日本国内だけの話である.外国が知ったことではない.
(朝日新聞の論は自虐史観による偽善,中韓朝に至っては国家規模のゆすりたかりでとしか思えないが)
昭和天皇のメモも今この時期に公表されたことは,何らかの政治的意図があることは疑う余地無しである.
ただ,現に昭和天皇も今上天皇も靖国神社に参拝していないので,内容は真実なのだろう.

現実を見通し,敗戦がなければ,負ける戦争さえしなければこんなことにはならなかった.ここに尽きるのではないだろうか.
当時から政治家・官僚・職業軍人の誰もが分かっていたはずである.
この責任は戦争犯罪が成立せずとも誰かが負うことは免れられなかったことだろう.
関西を中心に活躍しているナレーター(全国ネットではM-1グランプリ)畑中フーさんの意見には同感である.

もはや白州次郎のような傑物の出現は絶望しなければならないだろうか.
と書いているうちに件の本を読まなければという気になってきてしまった.

2006年9月22日

まず謝れバカタレ!

スーパーマーケットでのレジ袋不要カードやら有料化やらという,ゴミ減量等の環境問題を建前にした動きが活発であるが,そもそも買い物籠を店から締め出したのは,スーパー側だろうが.
万引き防止の観点からの動きだったはずである.
それをエコバッグなどと耳ざわりのいい名前をつけて,新たにモノを売らんとする態度が気に入らない.
しかも,レジ袋はさも消費者の要望によって無料提供していたという,消費者に責任を転嫁している態度である.
レジ袋有料化自体は意識付けのためには大変結構なことである.
しかし,割り箸とレジ袋を同列に並べて言及されることが多いが,事情は全く異なる.
買い物籠を持ってくる客を泥棒扱いしてきたというのがスーパー側の当初の態度.
それが買い物籠を持ってこない客のわがままを聞いてやっていたという論理のすり替えが行われているのである.
なぜ,誰もそのことについて気付かないのか.

まず,スーパー側がこれまでの態度が誤りであったことを,消費者に宣言すべきである.
今までの態度の誤りを正し,そのうえで協力を求めるのでなければ,全く筋が通らない.

2007年1月12日

痛し痒しバリアフリー

最近,駅が改修されてエレベータやエスカレータといった昇降機が盛んに設置されている.
バリアフリー化やユニバーサルデザインは大変結構なことである.
バリアフリー化は障害者が健常者と同等の活動ができるようにというものであるが,しかし,逆に言うと健常者の負荷も過剰に軽減し筋力や心肺能力を怠けさせる原因になる.
すなわち,弱ることを促進しているのである.
健常者はできるだけアンチ・バリアフリーの行動をとらなければならない.

私は,事務所ビルの5階程度であれば努めて階段で上がるようにしている.
駅でプラットフォームに上がるときなどは言わずもがなである.
しかし,このときに階段が非常に使いにくくなっているのだ.
昇降機へのルートのほうが優先されているためである.
結果どういうことになるかというと,エスカレータ前で混雑するのである.
これでは,本来利用してもらうべき対象の人がかえって利用しにくくなる.

健常者が昇降機を使いにくくするための誘導方法は,何かないものだろうか.

2007年11月26日

詐欺税金

よく言われる公務員の怠慢を指すところの税金泥棒ではなく,昨今,新聞紙上やニュースでよく取り沙汰される消費税率引上げの話である.

税金の直間比率の見直しや財政の建て直しなどやらなければならないことは山積しているのは確かである.
先に店頭や広告でサービスや物品の価格には消費税を含めた総額表示が義務付けられた.
しかし,消費税導入時からずっと残ってしまっているのが,年間売上1000万円以下の事業所における消費税納付の免除である.

これを撤廃してしまえば税率を引上げることなく消費税の税収が上がる.
しかも消費者の負担感を負わせずにである.実質的に見かけ上消費活動は何も変わらない.
個人商店を圧迫する意見であると受け止める向きもあるかと思うが,よく考えて欲しい.
消費税というのは,事業所が消費者から仮に税金を預かって代わりに納税するものである.
つまり単なる中継点である.
その中継点で税金の流れが止まっているということは,つまりは横領であり,詐欺である.法律が堂々とそれを許している.
総額表示義務付けと消費税納付免除撤廃を同時に行うべきだったのである.
購買層はそのことに気付いているのか.それとも大型小売店舗でしか買い物をしないので自分が支払った消費税分は正しく納められていると納得しているのか.

他にも消費税には矛盾がある.
軽油には軽油本体の価格に軽油税と消費税が課税されている.
しかし,ガソリンにはガソリン本体とガソリン税の合計に対して消費税が課税されている.
税金の上に課税するという馬鹿げたことがまかり通っている.
同じ自動車用燃料なのに,である.

税金は喜んで納めるべきもので,搾取されるものではないのである.日本は税金と社会保障のバランスが極めて悪いことは明かである.
そのためにはどうあるべきかを明らかにするのがジャーナリズムの役割のはずである.
マスコミは,経済団体が消費税率引上げを容認したとかそんなニュースよりもこうした矛盾を先に指摘して正していくべきではないのか.
それが正しいジャーナリストの使命であると考えるのだが.

それができないのであれば,御用機関と謗られても甘んじて受けなければならない.

2007年12月20日

クリスマスも良いけれど

京都議定書の二酸化炭素排出量削減について目標達成できず,排出権を他国より買うことで名目上の達成をしようとしている.
後数日でクリスマスなわけであるが,12月に入って街中のあちこちでイルミネーションが華やかである.
しかし,これらも当然ながら電力消費をしている.
少しは,自重したらどうなのだろうか.
私などがよく覚えているのは,第二次オイルショックの時に午後10時以降はネオンサイン停止していたことである.
結局は,同じことをすればよいだけではないだろうか.
クリスマス気分が出ないなどという声も聞こえてきそうだが,そもそもキリストのミサに電飾は必要か?
本来の姿に立ち戻って,商業先行ではなく,またキリスト教徒か否かは別にして厳かにクリスマスを迎えるというスタイルに消費者主導で移行していく意
識の高さがほしいものである.

2008年2月 5日

要らないスイッチ

いつも思うのだが,エレベータの「閉」ボタンは要らないのではないだろうか.
こんな非情なスイッチはない.
逆に「開」ボタンは絶対に要る.エレベータの扉は,自動で閉じるので危険である.
そう,放っておいても自動で閉じるのである.

何度か述べているように,私はエレベータやエスカレータを極力避けるようにしているので,エレベータを待つことはしたくない.
だいたい,思うのだが,エレベータのかごが来るのは待てるのになぜ自動で扉が閉じるのを待てないのか?
エレベータにまつわる,人の行動には,常に矛盾がはらんでいることが不思議でならない.

2008年2月 8日

かぜで動くのは藪医者,銭で動くのは?

吉本興業が梅田花月を落語の定席にするという.
しかも天満天神繁昌亭の昼席と全く同じ時間にして数百円安い料金設定にするとか.
吉本興業というのは,戦後,上方落語を絶滅寸前にまで追い込んだ張本人である.そして異常なほどに縄張り意識が強い.
それが上方落語ブームに乗ってこういうことをする.
このやり方は気にいらない.私のように思っている上方落語ファンは少なくないと思う.
これまでも,笑福亭仁鶴,桂三枝,桂文珍ら大御所は,なんばグランド花月に出演していたが,若手・新人にも出演の場が与えられるというのは確かに悪いことではない.
ところがおそらく,繁昌亭が所属問わず出演できるのに対し,梅田花月には吉本興業所属以外は出演できないのだろう.
吉本興業に所属する落語家は,上方落語協会員200人あまりのうち桂文枝一門を中心とした60人ほど.実は1/3に足りない.
しかも,現・上方落語協会会長は桂三枝師である.

今では珍しくないが,10年程前まで吉本興業所属と松竹芸能所属の芸人が同じテレビ画面の中に映っているなど全く考えられなかったことである.
他にも吉本新喜劇を辞めるつもりで,京都花月と梅田花月を閉鎖し,ビデオ「ギャグ100連発」を制作したが意に反してこれがヒットしたために存続したのである.
銭の匂いに釣られたとしか思えない態度である.
ビジネスなので営利追求をするのは当然であるが,その儲かった分で他の分野の保護育成も行うべきではないだろうか.
吉本興業は驚くほどの優良企業である.一般の企業が不採算部門から撤退するのとは意味が違う.しかも文化を担っているのである.

2008年3月18日

地の利だけではない

3月17日付朝日新聞夕刊の芸能欄で梅田花月の昼を落語定席にした,うめだ花月花形寄席(花花寄席)が開かれるようになって2週間の記事があった.
初日は満席になったのに,あとは空席が目立つらしい.
天満天神繁昌亭のキャパシティは梅田花月よりも若干大きいくらいだが繁昌亭昼席は相変わらず盛況だという.
交通のことを考えると明らかに梅田のほうがターミナルなのでよいはずである.
松竹と吉本の新喜劇を比べればわかるが吉本興業は下衆な流行は作れても正統的な芸を売るのは下手なのではないかと思う.
文枝,林家,仁鶴一門を持っているのにもったいないことである.
松竹芸能は吉本興業の後塵を拝しているような印象だが,松竹新喜劇,春団治一門,笑福亭一門と,なんといっても上方歌舞伎を持っているのである.
とは言ってもミナミのメインストリートである道頓堀に陣取っていながらそれを生かし切れず,浪花座,中座,角座次々整理に追い込まれている現状にあるのも確かである.
どっちもどっちなのか.

2008年4月17日

食べるということ

「大食いタレント」なる奇妙な人種が発生して久しい.
もともとはテレビ東京系『TVチャンピオン』から独立したものであるが,他局が真似して大食いと早食いを混同し,死亡事故まで発生させたが,我こそは元祖と復活させて定着したものである.
が,私自身は決して嫌いな番組ではない.
自らの特異体質を生かして人々の耳目を集めるのであるから,一種の才能であるといえる.
名前を売り,元手を作って起業しようとする者もいるので,それはそれで結構なことだろう.

見ていて不快感を催す人もいることもわかる.しかし,よくよく見ていると,常連の出場者は非常に食べっぷりが美しい.
食べ方も頭脳戦である.スマートなのである.見ていて感心する.
逆に挑戦者たちには余裕がなく食べ方が著しく汚らしい.これは確かに不快感に同意できる点である.
食べ物を粗末にしているという意見もあるが,前述のように体質なので必ずしもあたらないと思う.
ただ,食べるという行為は,動物にしろ植物にしろ,他者の生命を犠牲にしているということに他ならないのである.
それだけ,大食い体質を持って生まれたことは業(カルマ)が深いということが言えよう.

ひとつこういうことを考えてみる.
特に肉料理の場合,競技中に出場者達の目の前で家畜を屠殺しながら調理して出してはどうだろうか.
自分たちの体質がいかなるものか,農畜産物の生命とそれを料理として作る手間暇に思いを巡らせながら競技に臨んでもらうのである.

仮に音声だけであっても,とても放送できるものにはならないであろうが,食とは根源的にどういうことかを視聴者にも考えさせる機会にはなろう.
おのずと昨年来,話題になっている賞味期限や消費期限を表面的な数値のごまかし問題にとどまったとらえ方ができなくなると思う.

2008年6月21日

船頭多くして…

色々と物議を醸している奈良平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターだが,“公式”「せんとくん」の他に「まんとくん」「なーむくん」という“有志”によるキャラクターが6/21現在で二つも出てくるという異例の事態になっている.
歴史には多少なりとも興味はあるし,隣県だし,近鉄電車で普通に乗っても30~40分で行ける所なので少し気になっている.
公式キャラクターの「せんとくん」は,かわいくないだの,気持ち悪いだの,仏様を侮辱しているだの,散々な言われようである.
かわいくない,気持ち悪いは,理解できる.デフォルメと単純化が進んでいないのでどう考えても着ぐるみ栄えがするとは思えないのだ.
しかし,納得できるようでちょっと考えると納得できないのが,仏教界の「仏様を侮辱している」という非難である.
一見,仏に獣である鹿の角を付けることは冒涜しているように思える.
だが,奈良の鹿は神の使い“神鹿”であり,春日大社に属する.江戸期には幕府が鹿の餌料を支給し,鹿を殺した者は死罪であった.それほどのものである.
さらに,興福寺と春日大社は,藤原氏の氏寺・氏神であり,明治期の廃仏毀釈を経験はあるものの,神仏習合のならいは守られ,一体のもので境界がないといっても過言ではないのである.
だから,仏の頭部に鹿の角というモチーフは,奈良を象徴するキャラクターとして全く問題ないのではないだろうか.

2009年6月 3日

江戸の仇を…

もう,はるか昔のことになるが,小学校一年生の国語,漢字テスト.
漢字の読みで,「七」の右に括弧が二つあり,ひとつは「なな」もうひとつを「ひち」と書いて×を食らったことがある.
しかも,何が間違いかがまったくわからなかったし,何の説明もなかったのである.
生まれも育ちも中河内.普段の発音のとおりに書いたまでである.
戦後すぐほどはひどくはないながらも,昭和50年代,標準語化 が進められていた頃である.
それから30年.漫才ブームや吉本新喜劇のブームを経て上方落語ブームである.

先ごろ,天満天神繁昌亭で定額給付金と同額(昼席前売り6回分)で7回入場できる回数券「七度(ななたび)キテネ!」が売り出されたことが新聞記事になっていた.
この回数券の名称は,上方落語の演目「七度狐」にちなんでいるのだが,その新聞記事には「ひちどぎつね」とルビが振られていた.
決して「しちどぎつね」ではない.しかも朝日新聞である.
繁昌亭のオープンを機に出版された「上方落語家名鑑」の上方噺厳選120本でも,さ行ではなく,は行で「七段目(ひちだんめ)」や「質屋蔵(ひちやぐら)」と記されている.
30年あまりを経てようやく認められた気がする.
まさに江戸の仇を長崎で討った気分である.

IMEで関西弁モードがあるものもあるのだから,“じ”と“ぢ”,“ず”と“づ”に加えて,“し”と“ひ”のあいまい変換も加えてほしいものである.

2009年9月 2日

気に障る単語

最近,休日のETC搭載車の高速道路通行料金1000円や,盆休みの渋滞,駿河湾での地震による東名高速道路の通行止めなどに関連して,よく耳にした言葉で気になることがあった.
ニュースなどの報道番組で一般道のことを指して“下道(したみち)”と称していたことである.
我々が世間話で下道というの表現を使うのはわかる.百歩譲ってバラエティやトーク番組でもさほどの違和感はない.自分でも実際使う.
しかし,NHKニュースでも下道と言っているのである.
標準語とはなにかと調べてみると,NHKのアナウンサーが話す言葉と説明されていることも多い.
しかし,下道は俗語で正しい言葉とは言えないのではないだろうか.
たまたま,高速道路は都市部で高架になっていることが多いので上下のように思うだけのことであって,都市部以外を通っている部分については地面の上に道路が建設されている.

さすがに道路交通情報で下道といっていないのでそれだけが救いかもしれない.交通情報が言ってしまったら世も末である.

2013年10月29日

要らない演出

テレビを観ていて,常に字幕が出るようになって久しい.
しかし,気になりだすと非常に目障りである.
かつて,新聞か何かのコラムがこの字幕を非難したら,聴覚に障碍を持っているとありがたいものだと逆非難されたということがあったようで,それはそれで認めざるを得ないが,完全にデジタル放送に移行したのだから,選べるようにしてほしいものである.
なぜ気になりだすと余計に目障りになるかというと,誤字というか誤変換が多すぎるのである.
国語審議会的には厳密ではないかもしれないが,「基」や「元」とすべきを「本」と表示したり,目に余るのは「濡れる」を「塗れる」と表していたのにはあきれ返るしかない.
字幕を作っている御仁は前後の脈絡をあまり考えていないとしか思えない.
画面と一致した印象にならないので興ざめである.

デジタル放送の字幕でも,全国放送の演芸番組あたりで上方演芸がかかろうものならそれはひどい.ちゃんと聞き取れてないならば,出演者に確認すればよいものをテキトーなそれらしい言葉を嵌めてある.
ネイティブの上方の人間からしたら,そんなことは言わんとしかいえない.あきれるばかりである.
テレビを見るときの脳の働きとしてはバラエティ的な字幕が出るとあまり活発にならないそうで聞くだけで理解するということが重要らしい.
それにも増して目に入ってくる文字もその内容も目障りである.
いやなら見なければよいというお説はごもっともであるが,しかし,内容は見たいものなのである.
おおよその傾向としては東京キー局のバラエティ番組で顕著である.
何でいちいち動物が歩いたりちょっとした動作をするたびに効果音を付けるのか.面白いどころか,興ざめである.
絶叫型の実況アナウンス風も気になる.状況として実況アナウンスの必要もないし勝手に作り手で盛り上がっているだけのように見えて,内輪受け,自己満足に近くこれまた興ざめである.

2013年11月16日

食材偽装騒ぎに思う

最近,ホテルやレストラン等の食材偽装問題がかまびすしい.
産地詐称や成形肉など,当然,非難されて然るべき事項も多い.
しかし,的をはずしているのではないかということもいくつかある.
私が「何じゃ,これ?」と思ったのは,"鮭と称して鱒を出していた"というものである.
だいたい,生物学上,サケとマスの区別は海に出るか出ないか程度で明確なものではないそうである.
あと,"おふくろの味と称しているが実際には中年男性料理人が調理していた"というもの.
そもそも"おふくろの味"の提唱者は誰かといえば,料理研究家の土井勝氏である.
確か,モノクロの頃のNHK「きょうの料理」だったかと思う.すでに当時で土井勝氏は中年男性である.
それを鬼の首を獲ったかのごとく,非難するマスコミ.
自分らの不祥事はたいした反省もせずに,誤報は誤報と認めず,訂正や謝罪は申し訳程度.
新聞なら紙面の目立たない片隅,テレビならば何のことかわからない一言の詫びのみ.

根源的なことは,日本人の上っ面のみのブランド志向ではないだろうか.
看板やキャッチコピーに惑わされ本質を見極められないことにつけこまれている結果なのである.

2014年7月 4日

だから,言ったぢゃないか

元市選管事務局長ら、白票300票不正に増やすというニュースがあった.
かつて,こんなことを書いた.
やはり,起こるべくして起こったと言わざるを得ないだろう.
このところ,周辺諸国とわが国の辺縁が不穏である.

重ねて主張するが,白紙投票は行ってはならない.
「該当者なし」と書いて積極的に無効票を投じるべきである.

2014年10月11日

天気予報

近年,気候の変化に伴うと思われる大災害がほぼ毎年数件起こっている.
そんな状況を反映してか,ひまわり8号も打ち上げられ,運用が開始されるということも聞こえてくる.
特に,台風18,19号と一週ごとに来襲という事態になっている.

そんな中,テレビの気象情報を観ていて気づいた.

今現在,テレビ,新聞,また,気象庁のウェブページすべて,北海道の釧路から下に向かって最後は沖縄県の那覇である.
日本の気象,天候は,基本的に西から順に移り変わってくる.
ということは,全国の天気予報の並べ方が逆なのではないか.
今の表示は,気圧配置等の進行とは逆行しているのである.
沖縄方面から並べる方がその後の気象の予想がイメージしやすいのではないかと思うが,いかがだろうか.

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