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雑想 アーカイブ

2002年01月06日

郷土愛

まず,私の嫌いなタイプの人間は,

自分の生まれ育った土地を卑下あるいは否定するヤツ
偏った,歪んだ郷土愛が突出して自分の郷土以外の土地をけなすヤツ
地方をステレオ・タイプ化するヤツ
東京至上主義者

である.

東京で一人暮らししたこともあったが,東京だからといって特別にどうということも思っていない.
私は常に“住めば都”と考えているし,自分の河内弁混じりの大阪弁を薄めようとも思わない.
ただ,この言葉・表現は,東京の人にはわからないだろうな,と思ってわざと標準語的表現をすることはある.
ただし,これは,礼儀・気遣いの範疇に入ると思っている.

明治維新のときに,当初は遷都先が大阪であったことをご存知であろうか.
いざ,皇居を大阪城に遷そうというときに,混乱にのさなか大坂城が炎上し,
急遽,それまで事実上の政治の中心地であった江戸=東京に遷されることになった.
偏った大阪至上主義者は「なんで,そのときに大阪に遷都せんかったんや」
と考えるところであろうが,私はそうは思わない.
大阪平野は,関東平野に比べて山と海の距離が非常に短く,しかも,古来より街があった.
現在,東京で首都機能の行き詰まりが,浮かび上がっているが,
もし,大阪に遷都されていたら,もっと早く行き詰まりが訪れていたであろう.

偏った大阪至上主義者は,東京に負けまい負けまいとしているのが見え見えになっているのが見苦しい.
よく取沙汰されるのが,うどんのだし.逆に言いたい「大阪の自慢はそれだけか?」
他地方も尊重してこそ,郷土愛ではなかろうか.

他地方の人が,カンサイ,カンサイとステレオ・タイプ化するのも腹立たしい.十把一絡げにするな,と.
有名な街だけでも,京都,大阪,神戸,奈良,….とあるわけであるし,
単に行政区画の大阪府と言っても,
摂津,大阪,河内,和泉
大きく4つに分かれるのである.
言葉がこのなかだけでもかなり大きく異なるのである.
河内弁は誤解されやすいことに日頃から忸怩たる思いを抱いているので特に例に挙げる.
河内弁ときいて,「ワレ,そやんけ」と連想するのは,大きな間違いである.
河内弁の特徴というのは,促音と撥音の多用である.
例えば,東大阪市北部に「加納」という地名がある.これは,「かんのぅ」と発音する.
同様に「昨日」という言葉は,「きんのぅ」と発音する.
また,「行きよる」→「行ッきょる」などとなる.
さらに,古語辞典に載っているような単語を使うことも多い.
これは,逆に蝸牛考の考えで行くと,言葉の成立は

畿内=上方=貴族文化の中心地

から同心円状に広がるということに他ならない.貴族文化への憧れから生じた流行語の伝播である.
そう,実は古語ではなく,成立を考えると最新の言葉である.
「下らない物」という言葉は,「上方から来たのではない物」という意味である.これは事実である.

所詮,標準語は,

山の手=会津藩屋敷が林立していた場所

の言葉を基本に作った,人工の日本語に過ぎないことが明らかである.
例えば,「~でやす」→「~です」

実は,東京ことば≠標準語である.
勘違いしてはいけない.


※蝸牛考については,松本修著『全国アホ・バカ分布考』を読まれると良い.
そう,『探偵!ナイトスクープ』を全国区に押し上げたテーマである.
柳田国男ですら,京都を中心とした5重円しか描けなかったのに,
なんと,13重円も描けた民俗学的に非常に貴重な調査結果である.

2002年01月29日

自動化,デジタル化に対する疑念

 機材倉庫に日本が誇るNikonの時のフラッグシップ機F3を置いていながら,写真の事にはこれまでまったく触れてこなかったことに気づいた.

 機材倉庫を御覧になってわかるように,私はマニュアルフォーカス派である.しかもフルメカニカルならそれに越したことは無い.
だいたい,高級一眼レフに全自動機能など必要なのか?と常々思っている.高級一眼レフの自動機能など複雑過ぎて使えたものではない.

 露出を自分であわせるのが難しいと仰せの御仁は,数多いるが,とんでもない勘違いである.
露出など,シャッタースピードと絞りの組み合わせにしか過ぎないのに,それを○×モードと称して何種類も用意して.
取り扱い説明書が分厚くなるだけである.操作系を覚えるだけで骨である.しかも全機能使うわけではない.
MFカメラの取説のシンプルなこと.しかもMFカメラは,一機種使えればメーカー共通,万国共通である.
扱いがシンプルなだけに慣れも早い.慣れれば,体の一部であり,実際には自動で焦点合わせ,露出合わせするよりもかえって早くなる.
しかもAFカメラというのはレリーズボタンを押してから,シャッター幕が走り出すまでの時間差がかなり大きい.
デジタルカメラなど,さらにそれが顕著である.
 それにデジタルカメラの画素数競争.これも馬鹿らしい.銀塩フィルムに追いつこうとしているに過ぎない.
鮮明で描写のいい写真をとりたければ,銀塩フィルムを使えばそれで事足りるではないか.

 とは言いながら,自動の恩恵を享受しているのも確かである.
自動露出も絞り優先は,撮影意図が反映されやすいので重宝する.
デジタルカメラのメリット,手軽さは十分認める.当サイトの説明写真も全てデジタルカメラで撮影したものである.
 しかし,それ以上でもそれ以下でもない.
いくら,自動化が進もうとも,撮影者の意図を電算チップが汲み取るわけはないし,デジタルが銀塩フィルムに取って代わることもありえない.
映画用の35mmフィルムがスティルカメラ用のフィルムとして使用されるようになってところで,乾板もブローニー版もなくならなかったように.

2002年03月28日

責任者出てこいッ!

この国はつまらない誤謬が多すぎる.
ここ何年もすっきりしない気持ち悪いことがある.

小数点の意味で“カンマ”と言うことである.小数点ならば“ポイント”だろうが.
カンマは桁区切りで全く意味が違う.
こんなに定着してしまっていまさら変えようが無い,しかも非常に恥ずかしい間違いをいったいどこの誰がやらかしたのか.

同じ記号を指して言う言葉に“ドットコム”という言葉もある.これはホントに正しいのだろうか.
ドットは略式乗算記号に使う,“・”であって決して“.”ではないと思うのだが.
コンピュータの事実的基準を作り続けてきた合衆国のシリコンバレーではどう言い表しているのであろうか.
実際に耳にしてきた方,教えていただきたい.非常に興味がある.それを確かめるまで得心いかない.
また,コンピュータ関連であるならば,もうひとつ,“ホームページ”これは明らかにおかしい.
正しくはWEBサイトである.ホームページとはブラウザソフトを起動したときに最初に表示するように設定するページ,
あるいはWEBサイトのトップページのことである.
ホームという言葉は拠点という意味を持っている.
これを知っていれば,日本で一般的に使われているホームページの意味が誤りであることがすぐにわかるだろう.
私は実際に口にしたり,書き表したりする場合にはWEBサイトまたはサイトと表現しているのは気付かれているだろうか.

こういうことを挙げはじめれば,枚挙に暇が無いのであるが,さらに具体例を挙げてみる.

レコードという言葉を聞いてアナログ・レコードと直結して連想する方に問いたい.
録音することを横文字あるいは片仮名で表現すると何と言いますか?なぜ,レコード会社はCD会社と一般名称を変更しなかったのですか?と.
(本来はレコードという言葉もおかしくて,フォノグラフ[phonograph]のはずなのだが)
もう少し発展させて,ビデオ=磁気テープメディアのみを指すのですか?DVD-Videoはビデオではないのですか?DVD-Audioは何と呼ぶのですか?と問いたい.
「ビデオとDVD」という広告文句をよく目にするのである.少し考えるとトンチンカンな表現である.
CDにしろDVDにしろ,12cm光ディスクのデジタル多用途記録媒体であって決して音声のみとか映像のみとか特定の用途に供される媒体ではない.
Compact Discであり,Digital Versatile Disk(Digital Video Diskではない!)というメディアの商標である.
フォノグラフは音声のみ,レーザーディスクは主として映像という経緯は確かに過去にはあった.
よく考えてもらいたい,「CDを聴く」「DVDを観る」という表現は実はかなりトンチンカンな言葉づかいであるのはお分かりだろうか.
写真を見るときに「ブローニーを見る」「35mmを見る」「APSを見る」あるいは「印画紙を見る」と言っているのと同じなのである.
誰がこんなことを言う?

そもそもの間違いは権威のあるヤツが最初に何の考えも無しに言ってしまうのが始まりである.
大衆は流されやすいものなのだから,十分にその自らの影響力を考えてから,言葉を発してもらいたいものである.

最初に誤謬を植え付けた不届き者!そこへなおれ!!成敗してくれる!!!

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2002年04月28日

読み仮名の矛盾

 成り行き上,言葉について第三弾.

 長年の間,不思議で不思議でたまらない,今でも腑に落ちないことがある.

それは“地面”の読み仮名が“じめん”だということである.

“地”という文字,一字だけなら“ち”だろう.
“地名”は“ちめい”であって“しめい”ではないし,“土地”は“とし”ではない.ましてや“地球”は“しきゅう”では断じてない.
なのになぜ“地面”は“ぢめん”ではないのだろうか.

国語審議会の読み仮名の規則では,

 複合語で濁音となる場合には単独の単語のときには,清音に濁点をつけ,もともと濁音のときは原則として,ざ行を用いることにする.

というものである.

 だから,鼻(はな)+血(ち)は,鼻血(はなぢ)である.けっして,“はなじ”ではない.
風邪や花粉アレルギーの症状であるところの,鼻がつまることは,“はなづまり”であって“はなずまり”ではない.
この法則から行けばやはり,“地面”は“ぢめん”のはずである.
今まで何度も国語審議会の改訂を見てきたが,これだけは一向に改められる気配すらない.

 もともと濁音のときは原則として,ざ行を用いるとはしているが,やはりおかしいのではないかと思える語もある.
“伯父”,“叔父”,“小父”はどれも“おじ”である.“父”は“ちち”なので,“おぢ”の方が本来のような気もする.
外来語にもある.“ラジオ”がそうである.英語の綴りは“radio”であえてカナで読むなら“レイディオ”.
“ラジオ”ではなく,“ラヂオ”のほうが,近いような気がする.

もう一例は,尾篭な話で申し訳ないが“痔”である.
これは大阪だけのことかもしれないが,薬局・薬店で掲げている痔の薬の看板には,
でかでかと

と記されているのである.症状や痛みなどを非常によく表していると思うのだが.


最後に,大正・昭和初期の洒落.

「世の中は,清むと濁うで大違い.刷毛に毛がある,禿に毛がない.」

2002年07月15日

イカ・タコ

 空に揚げる凧は現在“タコ”と発音する.これが本来“イカ”だったことをご存じだろうか.

 おそらく,にわかには信じがたいかと思うが,本当である.
 戦後しばらくまで存命だった,私の曾々祖父がハッキリと言っていたと父に聞いているし,
祖父も「昔はそう言っていた」と言ったのを聞いたことがある.

 そもそも“くだらない”物というのはどういう物かというと,
江戸では,もともと上方(京・大坂)からもたらされた物を“下りもの”といい,高値で取引されて喜ばれた.
それ以外の地方からもたらされたものを“下りもの”の対語として“下らないもの”と流通の方向で差別していたわけである.
舶来志向やブランド志向の原形かも知れない.

 現在は遷都され,経済・文化の中心は東京にあるので,大阪が東京に対抗している図式ができあがっているが,江戸時代は逆.
実質的な政治だけが江戸で執られていたものの,朝廷が厳然と存在し文化の中心は上方にあった.
“上洛”,“下向”,和宮妃の“降嫁”という言葉がそれを表している.
方向は逆になったが,交通の“上り下り”,“上京”といった言葉と発想は同じである.

 前置き的な解説をこれぐらいしておけばもうおわかりかと思う.
和凧の形状は,奴凧や蝉凧等あるが,四角いものが基本である.で,安定のために足が付いている.
平べったく干物にした蛸と烏賊どちらの方が形が近いかというと,丸みを帯びた蛸よりも角張った烏賊だろう.
 上方で“イカ”と称して遊んでいた玩具を江戸ではそれに対抗して“タコ”と称していた.
明治新政府樹立後,東京の山の手の言葉を基本に標準語が作られたので“凧”の読み方は“タコ”と固定されたのである.
国語辞典で“凧〈たこ〉”を引くと最後に「いか(のぼり)」と明記されている.

 こういった,生活・風俗を表す言葉の語源などは,ハッキリした意味がなく,スラング的に発生するので,
遡ってたどってみると意外な物にぶち当たるものである.

2002年09月08日

表と裏

 昨今,何かと話題の日本海であるが,その日本海側のことを“裏日本”と表現することがある.
山陽と山陰.これは分からないではない.太陽は南から照るので,日なた側と日陰側ということは言えるだろう.
だが,“裏”というと何やら正規の物ではない,後ろめたい印象がつきまとう.

 確かに,現在は,東京湾~東海~大阪湾~北九州が太平洋ベルト地帯と呼ばれて,工業・経済で大きな役割を担っているが,
それでも北九州は日本海側に位置している.

 しかし,なぜ,日本海側が“裏”なのか?なんとも日本海側に住んでいる人々にとっては失礼な話ではないか.
古来,文化は中国大陸~朝鮮半島を通って日本にもたらされた.
ということは,日本海側は実際には,“表”玄関ではないのか.
太宰府も,西からの侵攻に備えて設置された役所である.

 誰が言い出した言葉かは知らないが,おおよそ,その指されている地域の人たちを意識して考え出された言葉とは思えない.
中央から見た差別的侮蔑的印象が,具体的に言葉に表れた悪意を含んだものとついつい解釈してしまう.

 小さなことでも,その言葉が含む意味について意識しながら使うように心掛けたいものである.

2002年10月18日

まるで時限装置

 昨今,資源のリサイクルや製品の長寿命化が,うるさく言われている.

 しかし,メーカーの態度は宣伝等で言われているような耳に心地のよいこととはほど遠いように思われて仕方がない.
例えばビデオデッキ,経験がおありなのではないだろうか,購入から1年を過ぎたビデオデッキで,
テープがデッキ内部に巻き付いて取り出しができなくなったということが.

 ビデオの再生・録画の際には,アームがテープを引っ張り出してヘッドに巻き付けるような格好になるのだが,少し古くなると取り出しの際に
テープをカセット内に戻せなくなってしまうにもかかわらず,一方では無理矢理カセットを排出しようと動作するから,せっかくのテープも台無しである.

 原因は何種類かあり,一つは,潤滑油の劣化あるいは部品の摩滅ですべりが悪くなって駆動しなくなること.
もう一つはプラスチック製の駆動プーリーが収縮のために割れて動力が伝達されなくなってしまうこと.

 どちらにせよ,映りは悪くなっていないのに修理に出すと,ヘッドまで交換されて,部品代と工賃合わせて2万円ほどもかかってしまう.
しかし,この二原因とも自分で修理が可能と来ているので余計に腹が立つ.
特に2つ目の故障要因など,部品自体は数百円のはずである.
ところが電器店で部品注文しても,全体がユニット化されているので単体では売れないと言うのだ.
プーリーの割れ方を見るとどう考えてもそういう収縮するような素材を使うべきではない場所に使われているのだ.
経年変化で必ず全体の機能に支障をきたす部品である.換言すれば時間が経つと必ず決まった場所で故障する時限装置のようなものである.

 実は私は自分で使い古しのギターの弦を焼き鈍してこの修理をやってしまって,更にヘッドの摩滅で映らなくなるまで3年ほど使い続けたのである.

消費者に製品の回収費用を負担させるくらいなら,その前にもっとまともに使い続けられる商品を生産して欲しいものである.

2002年12月09日

身内を評価しない日本人

 日本初の会社員ノーベル賞受賞者として島津製作所の田中耕一氏が熱狂的に話題を集めていているが,
2002年のノーベル賞の選考はかなり手が込んでいたそうである.
現在世界中で用いられている蛋白質の検査方法で田中氏が開発した手法があるのだが,
実は誰の発案かがはっきりと認知されていなかったそうで,ノーベル賞選考委員も誰が開発したかを血眼になって捜したという話らしい.
要するに日本国内ではもちろん認知されていなかったという証左でもある.
ノーベル賞受賞の報を受けて,文化勲章や国民栄誉賞の授与など言語道断である.順番が逆ではないか.

 他にも日本人が世界でもいち早く発見・開発したものが多数あるそうだが,そのいずれもが国内では評価されずに海外流出している.
ビタミンなどは日本人学者が発見し,“オリザニン”として発表したものの,学会では認められないどころか酷評されたそうである.
少し後にイギリス人学者が同様の研究で“ビタミン”として発表し,世界中で栄養素として認められたそうである.
乾電池もそう.ごく最近では,青色発光ダイオードもしかりである.

 国レベルだけではない,自分達の組織内のものは認めようとしない.
私も企業の技術開発部門に属しているが,同じようなことが経験として実感できる.
技術開発が完了して社内でアピールしても誰も見向きもしないし,問い合わせもこない.逆に使えないと非難されるのである.
ところが,業界紙等で報道された途端に社内から問い合わせが殺到するのである.

 エンターテイメントの世界ですらそうである.
私が高校生の頃から10数年に亘って憧れの対象としているロックギタリスト,Kenji Jammerこと鈴木賢司も,国内でよりも海外で評価され,活躍中である.
逆に日本国内でヒットチャートに登るギタリストが“日本を代表する”とか紹介されるが,実際のところ海外で通用するかというと非常に疑問である.
野球やサッカーに限っては日本で地固めをして,海外チームで,という道順が出来ているようだが,その他の分野ではそれが出来ないようである.
日本で通用しても海外で通用しないし,海外で通用するであろうものは日本では認めてもらえない.

 日本は,加点主義ではなく減点主義が主流であるから,とニュースワイド番組では分析しているが,果たしてそんな紋切り型の片付けかたでよいのだろうか?
もっと根源的だからこそ,気付かない理由があるはずである.それは日本人が美徳としている,“謙虚さ”である.
外国からも日本人の国民性として良い印象として評価されていることが,この謙虚さであり,日本人自身も誇りに思っているようだが,
この,身内を評価しないことが,誇りに感じているはずの“謙虚さ”の表裏一体のものであると気づいている人がいかほどいるだろう?
贈り物を差し出すときに「つまらないものですが」と言うアレに代表される謙虚さが,である.
もっとも,自信の裏返しは傲慢なので,傲慢と謙虚のいいとこ取りというのも非常に難しい注文ではあるのだが.

2003年03月05日

順番がおかしいやろ!?

 近頃,コンビニエンスストアやファーストフード店などに入ると,決まって店員が
「いらっしゃいませ.こんにちは.」
と客を迎える.これは,語順が逆ではないのか?

日本語の挨拶の決まり文句である,
「おはようございます」
「こんにちは」
「こんばんは」
「さようなら」
すべて漢字で書くと当然ながら,
「お早う御座います」
「今日は」
「今晩は」
「左様なら」
となる.
すべてが,本来は社交辞令であり,後に続く言葉が省略されているものである.「お早う御座います」も自分より先に来ている人に対する労いを含む.
例えば,「今日は,天気もよろしいですね.」や「今日は,ご機嫌いかがですか.」などとなるはずである.
と,考えると冒頭に述べた例は,
「今日は,ようこそいらっしゃいました.」となるはずである.
誰がマニュアル化したか知らないが,非常に気持ちが悪い.
この現象は言葉が記号化していることに他ならないのではないだろうか.
作家の井沢元彦氏は,日本人は“言霊”に無意識に縛られていて,それが日本人の国際感覚の欠如や夢想的理想主義の原因となっていることを指摘しているが,
その一方で万葉集など優れた文学のよりどころとなっていることも確かである.
日本語の中で,言霊の悪い部分だけが残って,美しい部分が失われているように思う.

 また,関西弁で礼を言うときの「おおきに」=「ありがとう」とお思いではないだろうか.
これは間違えてはいけない.「ありがとう」はあくまで「ありがとう」であり,すべて言うと「おおきに,ありがとう.」である.
おわかりだろう.「おおきに」というのは,Thank you very much.の"very much"なのである.
ギャグで「おおきに,ベリーマッチ」などというのをたまに聞くことがあるが,全く意味が通らないのである.
ギャグといえども,浅学というか,語源を知らないこと夥しい.

 言葉を記号化せずに,言葉は事象を置き換えるものであると捉えてみるべきではないだろうか.
そのためにも下品な略語は極力使わない方がいい.

2003年03月12日

WEBサービスの覇権

私がこのサイトを立ち上げる際,Tripod(LYCOS)でレンタルサーバを借りることから始めた.
自前のCGIを使いたいがためにisweb(infoseek)のサーバも借りた.
アクセス解析にCGIBOYも使っていた.
職場で情報収集のためのメールマガジンを登録するときの転送メールにAnetを使っている.

もともとは各別々の会社が運営してたはずである.
ところが,現在全てがinfoseekと事業提携あるいは事業吸収されている.

この事実,皆さんご存じだっただろうか?

2003年03月31日

目指せ,脱Microsoft Windows

日本としては今後,オープンソースのLinuxや
国産OSで,すでに携帯電話やその他の家電制御用マイコンで実績のあるTRONを推進していくとか.
ええことです.
高すぎるから金払いたくないのに,その辺が分かってるのかMicrosoft!アクティべーションみたいな姑息なことしやがって.
OSでも高くとも一万円前後くらいまでならちゃんと買うわい!嫌々ながら,これしかないから仕方なく使ってるだけで.
私物のPCでは,MS Officeではなく,フリーのOpenOfficeを使っている.
禁則やぶら下げなど日本語処理は,まだ,一歩とはいうものの,かなりMS Officeのデータと互換があり,使える.
私はもしかするとWindows XPは使わずに終わるかも(笑).

2003年04月12日

煙に巻かれるな

 昨今,宣伝文句として専門用語のようだが,少し考えると意味不明の言葉が氾濫している.
例えば,“マイナスイオン”であり,例えば,“アミノ酸”である.
具体的にどんなものなのか?はたまた,どんな効果があるのかが,さっぱり説明されていない.

 マイナスイオンなど,高校の化学の知識があれば,容易に眉唾ものの言葉であることは察しが付く.
マイナスイオンと聞いて,私が真っ先に連想するのは,化学反応式上では,Cl-と表記される,“塩化物イオン”である.
食塩=塩化ナトリウムNaClを水溶液にしたときに遊離する,アレである.
気体分子としては,便所の洗剤や漂白剤に使われたり,上水道の消毒に使われる塩素である.
単純に考えて,こんなものが身体に良いと思う方が間違いである.塩素ガスなど,最も簡単に製造できる毒ガスである.
また,便所の洗剤で誤って塩素ガスを発生させてしまって,死亡事故にまで発展するケースもしばしば起こっている.
果たして話題になっているマイナスイオンとは,何なのか,どなたか私に納得できる説明をして頂きたい.
寝ている間に,寝返りを打つことでマイナスイオンを発生する布団など,どう考えても静電気としか考えられないのだが.
静電気は,化学繊維の衣服を着用することで骨の主たる構成要素である軽金属=カルシウムに作用して悪影響を及ぼすとの説もある.
私にとっては,こちらの方がよほど説得力があり,良い影響があるとは到底考えられないのだが.

アミノ酸にしろ,世間で言っているのは,一体何を指しているのか?アミノ酸といえば,蛋白質の最小構成要素である.
単にアミノ酸と言えば,数が多すぎる.必須アミノ酸なのか?化学調味料である,L-グルタミン酸ナトリウムもアミノ酸である.
多岐に渡りすぎて,どれが何にどういう効果をもたらすかなど,一般人で言える人などいまい.

 「学校で習うことは,役に立たない」と言い切ってしまう方々にもの申す.
今回挙げたようなことに踊らされないだけでも,学校で習う知識は十分に役立っている.
無批判に取り入れてしまうことが,いかに学校で習ったことが身に付いていないかの証左なのである.

注)滝の付近で水の飛沫によって発生する,クラスターイオンは,仮説だが存在すると言われているが,
クラスターイオンとマイナスイオンは,言葉の定義上全くの別物である.
さらには,マイナスイオンと負イオンも別のものを指しているらしい.

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2003年06月13日

ラジオ・テレビ

 中高生の頃は,ご多分に漏れずラジオの深夜放送をよく聴いていた.
大阪では,朝日放送(1008kHz)「ABCヤングリクエスト」と毎日放送(1179kHz)「MBSヤングタウン」が二大巨頭だった.
あるいは,ラジオ大阪(1314kHz)「浜村淳のサタデー・バチョン」「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」等々.
私よりも少し上の世代の人では,少しインテリ目の人がヤンリクを聴き,やんちゃ目の人がヤンタンを聴くという傾向があった.
私はヤンタン・リスナーだったので,ヤンリクのことはわからないが,
ヤンタンはパーソナリティが豪華で,毎日放送は在阪局にもかかわらず,夜間は電離層の作用で電波が遠方でもよく届くことから全国にファンがいた.
大阪のラジオ番組というのは,ある種独特の雰囲気を持っており,ほとんど芸人の楽屋でのウダ話といった様相だった.

 '80年代後半には,このヤンタンを発祥として同時にいくつかのテレビ番組も制作された.ラジオが発信元でテレビ番組が制作されるのである.
古くは,「ヤング おー!おー!」に始まり,「夜はクネクネ」「あどりぶランド」等々.
蛇足だが,,あの「欽ちゃんのドンとやってみよう!」~「欽ドン!」もニッポン放送のラジオ番組「欽ちゃんのドンといってみよう!」を
テレビ番組に移行させたものだったそうである.
今,ほとんどそういった番組は,見かけない.

 いま,ラジオ,特に中波局はいまひとつ盛り上がりに欠ける.
少し前までは,深夜放送の番組には必ず居た,常連リスナー達,いわゆる“はがき職人”が行き場を失っているというのである.
インターネットの普及で,投稿にはBBSやEメールを使えるので非常に手軽になって居るのに,である.
実際に話芸に秀でた人,若手の芸人でなく,単にテレビの人気者を起用してしまうため,番組のパーソナリティがそういった材料を使いこなせない人ばかりなのである.
パーソナリティに起用される人がラジオ世代ではなくなったのだろうか.
午前~昼間の主婦向け番組は,長寿番組の「ありがとう,浜村純です」や「おはようパーソナリティ道上洋三」を筆頭に,
変わらず面白い番組が安定して供給されているのに,
夜間・深夜がヒットチャート番組しかないのは,20年来の深夜ラジオファンの私としては非常に残念である.

2003年09月26日

アナログとデジタル

 以前にも同じようなテーマで書いたことがあるが,書き尽くせていないので,再び俎上に載せる.
念のために断っておくが,私はデジタルを否定しているのではない.
現時点では,まだまだアナログに近づくための努力が懸命になされている段階であり,
性急にアナログをデジタルに置き換えるべきではないことを言いたいのである.

 よく,パソコンを扱うのを苦手な人が自らを自嘲的に「自分はアナログ人間だから…」などと言ったりするが,
デジタル技術=先進,アナログ技術=時代遅れ.などとお思いの方が多いのではないだろうか.
大きな間違いである.
アナログ技術は完熟した技術であり,デジタル技術は発展途上のまだまだ不完全な技術なのである.
その証拠に,情報媒体が次々に開発され,登場している.フロッピー・ディスクに始まり,CD,DVD,Bru-Ray,….

 アナログ=物理学的,デジタル=数学的と換言できるかもしれない.
機械等の電気制御でアナログというと,電圧変化を使って制御している.デジタル制御はそれを数値化して,論理的に制御している.
どちらが誤動作が多く発生するかという問題は状況にもよるので別にして,融通が利くのはアナログ方式である.
 我々の周囲の森羅万象の事象はすべてアナログの世界である.物差しとしての数値化はあるが,数値そのものが出来事を司っているわけではない.
 例えば,同じように数式による計算をする場合でも,物理的な計算を行う場合と数学的な計算を行う場合では,手続きが違う.
10を3で除した場合,3.3333…となるが,物理計算としての考え方であれば,便宜上結果に影響のない桁で丸めて3.33として扱うことができるが,
数学的な計算では,3.33としてしまうと3を乗じても9.99で10とは0.01も隔たった数値が返されてしまう結果となる.
しかし,どちらの結果も正しいのである.

 だが,日常のことを表現するには,どちらが正しいか?
大抵のことは,誤差吸収されてしまう.厳格にしてしまうとキリが無いからである.しかもアナログ的誤差というのは,限りなく真値に近い誤差である.
対して,デジタルの場合には,そのキリの無さを吸収するために分解能という考えを用いる.ところが妥協点を見つけるための判断というのが非常に難しい.
ハッキリと白黒が線引きされてしまうからである.
そこで,登場したのが,ひと頃,世間を賑わせた“ファジー理論”である.
「曖昧さを取り入れたデジタル制御理論」ということで非常に画期的なことと思われがちだが,何のことはない.分解能を10倍なり100倍に向上させただけである.
これもデジタル的論理展開を以てアナログに近づける努力をした結果である.


このように考えると真の意味でのアナログ人間とは,広い度量を持った正しい判断を下せる人のことを指し,
デジタル人間とは,融通の利かない,トラブルに非常に弱い人であるとも言えると思うのだが.


決してアナログ=アナクロではないのである.
そして,少なくとも現時点では,デジタルはアナログの補助にしかなり得ない.
さらにどこまでデジタルが発展しようが,最後に判断を下すのはアナログ活動しかできない人間なのである.

2003年11月12日

総選挙に思う

毎度のことだが,総選挙と同時に行われる,最高裁裁判官の国民審査.
候補者の名と政党名は投票所に掲示されているが,国民審査についてはまったく何もなし.
裁判の内容と判決は、政府広報では告知されているのだろうが,なかなか容易に目に触れるものではない.

不在者投票は確かに敷居が低くなった.
次は国民審査をもう少し何とかしてほしいものだ.
裁判が難解になっている原因ともなっていると思う.

2004年01月24日

東北史好き

東北の歴史が好きと言っても,ごく限られた期間,平安時代と戦国末期~江戸初期のみなのであるが.
具体的に述べると,征夷大将軍坂上田村麻呂で知られる朝廷対蝦夷(えみし)の三十年戦争と奥州藤原氏の興亡,そして伊達政宗の生涯である.

そもそものきっかけはNHK大河ドラマである.
伊達政宗については1987年の『独眼竜政宗』である.大河史上最高のヒット作なのでこの作品のファンも多いだろう.
当時は,単に政宗を演じる渡辺謙の凶暴なほどにダイナミックでギラついた演技が魅力で食い入るように見ていた.
続いて奥州藤原氏の興亡を描いた1993年の『炎(ほむら)立つ』である.この作品も主演は渡辺謙だったが,ワーストに挙げた方がよい程にあまり知られていない.
題材として源義経の滅びの背景としてしか一般には馴染みがないのが要因だと思うが,筆者にとっては更に掘り下げたことが新鮮だった.
いきなり源義経の背景として登場する奥州藤原氏の興りが描かれることがそれまではほとんどなかったからである.加えて三代秀衡以外が描かれることはほとんどなかった.
歴史史料でも前九年の合戦については「陸奥話記」に数行記述があるに留まっている.初代清衡の父親,藤原経清もそのような人物がいたことしかわかっていない.
そんな藤原経清を中心に前九年の合戦を描いた『炎立つ』第一部に非常に熱い物を感じた筆者は,奥州藤原氏について本を読みあさった.ついには平泉にまで足を運んだ.
すると,意外にも,奥州藤原氏と伊達政宗はつながる事項が多かったのである.
二者とも傍流であるが京藤原氏に祖を求める血筋である.
奥州藤原氏は平将門の乱鎮定の功があった大百足退治で有名な俵藤太秀郷の流,伊達氏は源頼朝の奥州合戦に従軍した藤姓の中村朝宗が功を上げ伊達郡を賜ったことに発する.
また二者とも奥羽の活気を印象づける存在である.源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされた後,歴史上に東北地方を印象づけるのは伊達十七代政宗まで待たねばならない.
室町時代の伊達氏中興の祖と呼ばれる九代大膳太夫政宗も知る人ぞ知る存在であるものの実にその間約400年(伊達“政宗”は二人いる.十七代政宗は九代政宗にあやかった名).
そうしたことをきっかけに更に遡ると,蝦夷の英雄=阿弖流為(アテルイ)に突き当たる.
朝廷側の大将=坂上田村麻呂はあまりに有名だが,阿弖流為はほとんど知られていない.
戦の起こりは奥羽地方に産する黄金を公卿が収奪しようとしたことによる(前九年合戦の発端も同じ).
田村麻呂は「怒れば鬼も恐れ,笑えば子供がなつく」と言われるほど懐柔策も巧い武人である.
田村麻呂は阿弖流為を生かして束ね役にしておけば蝦夷の反乱も抑えられると考え,阿弖流為も田村麻呂の人柄を見込んで投降したはずなのに,公卿が強硬に河内守山(現在の大阪府羽曳野市辺り)で阿弖流為の首を刎ねてしまった.
“清水の舞台”で有名な京都東山の清水寺は坂上田村麻呂の建立であり,阿弖流為の供養のために建てられた寺院である.
東北旅行をした後,そんな公家達の町京都で進学の関係で生活することにあまりいい気はしていなかった.

現在は観光地となっている平泉の達谷の窟を住処とした“悪路王”=阿弖流為とされているのがあまりに酷い.
本来は地元の古代の英雄であるはずが,大盗賊の頭目のごとき扱いである.
是非地元の方々には,阿弖流為の復権・名誉回復をして頂きたいと思っている.
筆者の主張である,「郷土愛を持て」「地方をステロタイプ化して見下すな」というのは,そもそもここから来ているのである.
筆者が大阪で生まれ育ったからといって,ありがちな大阪ナショナリズムだけで言っているのではないことを分かって頂けるのではないだろうか.

お薦めの歴史小説
山岡荘八「伊達政宗 全八巻」(山岡荘八文庫)
高橋克彦「炎立つ全五巻」(講談社文庫)
高橋克彦「火怨 上下巻」(講談社文庫)
高橋克彦「風の陣」(PHP)

2004年01月29日

もうちっとはマシな人だと思ったが

 長野県知事,田中康夫氏.

 長野県を信州県に変えようとしているとか.
文学者とは思えない馬鹿げたことを言い出すものだ.

 “信州”とは,“信濃の国”の略式表現であり,州=国で同義でさらにいうと現在の用い方では州と県も同義であると言えよう.
例えば,陸奥は奥州と言うし,出羽は羽州,尾張は尾州,三河は三州,和泉は泉州である.
早い話が二重表現である.敢えて言うなら信濃県だろうが.
ということは,“信州”という言葉に馴染み云々という理由付けは成り立たないわけである.

 なんでこのような基本的なことに気が付いて指摘しないのか,マスコミ.
特に“正しい日本語”の啓蒙者を自ら標榜するNHKこと日本放送協会も底が知れている.

 道州制をにらんだ,ともっともらしいことを言っているが,
それ以前に,現在の都道府県の行政区画よりも,かつての国の区画の方が気候風土から合理的なのではないか?
地方行政とは気候風土・土地柄に合わせたきめ細やかな住民生活に対応するものだからである.

 例えば,現在の三重県.近畿地方に属するのか東海地方に属するのかという曖昧な点がある.
経済圏と行政圏で見解が異なり,また,気象学的には,一県が3つに分かれるらしい.

 交通機関,情報網が発達したからといっても,
やはり,地理的な山や川の存在は大きく人の心に影響するもので,決して無視をすることはできない.

 信州県への改称案,長野県民は本当のところ,どう思っているのか?

2004年08月19日

満員電車

 毎朝,土曜日や日曜日が出勤の日以外は多分に漏れず,満員電車に揺られている.
東京の中央線の列車はラッシュ時には,座席が跳ね上がる車両を導入することについて賛否が巻き起こったことがあった.
そういうことに対して反対意見を述べる人物に限って日常満員電車を利用しなければならない環境に置かれていないのである.
「座席を跳ね上げて定員を5%ばかり増やしたからってどうなのだ?その姑息な考えが気に入らない」などともっともらしい事をしたり顔で言うがそんな問題ではないのである.
そういう輩には身動きできない満員電車で座席の前で吊革につかまって背後からの圧迫に耐える辛さを味わってみろ,と声を大にして言いたい.
座っている人の膝に自分の脚が当たったり,場合によっては相手の膝を割って自分の膝が相手の股間に入ってしまうこともあって気まずいことこの上ない.膝頭を支点に逆向きに膝を曲げられるような格好になり,膝を痛めるかと思うこともしばしばである.
運良く座席に着くことができたらできたで,前に立っている人の塊が崩壊してくるというちょっとした恐怖に耐えねばならないし,立ち上がることすらできないこともある.

 その点,座席が跳ね上がると大多数の立ち客と限られた着座客という不均衡・不公平はもちろんなくなるし,車内での動きもスムーズになるので乗降も円滑に進むはずである.

 大阪ではせいぜい,京阪電車が通勤ラッシュ時には開閉するドアを増やす工夫がなされている程度だが,筆者はラッシュ時の座席は無用だと思う.
もちろん,脚の不自由な方もいるだろうから,全くなくしてしまえとは言わないが,ほぼ定着したと思われる,女性専用車両と同様の措置を取ったらどうかと思うのだが.

2004年10月19日

嬉しい筋肉痛

30代も半ばともなると,身体的な衰えが実感として出てくるようになる.
最も顕著に表れるのが筋肉痛ではなかろうか.
たまに力仕事やスポーツをすると二日後に筋肉痛に襲われるなど….
幸い筆者はまだ翌日に筋肉痛が現れる.
実際のところは,筋肉痛が出る時点で日頃運動不足に陥っていることに違いはないのだが,
「運動不足にもかかわらず,まだまだ若い」と安心できるのである.
大学時代の同級生には,その頃から二日後に筋肉痛が出る者も居たので年齢的理由は直接的には無関係かもしれないが.

そこで,はた,と思うのだが「まだまだ若い」と思ってしまうこと自体が,かなり年齢がいってしまっている証拠なのではないか!?

2004年10月23日

何が目的だ?

かなり言い尽くされた話だが,今年は台風が多い.
しかもかなり強い台風で被害も甚大である.
人的被害,物的被害ともに捜索や撤去~復旧作業が必要となる.
そこで登場するのが,自衛隊である.しかし,自衛隊の隊員の服装がどうもいただけない.
なぜ迷彩服に身を包んでいるのか?迷彩服とはゲリラ戦に於いて茂みに身を隠すためのモノである.
自衛隊は誰がなんと言おうと本質は軍隊である.だから,普段はそうあるべきであるのは確かである.
また,消防のレスキュー隊の作業服はオレンジ色である.とてもよく目立つ.
ということをふまえて考えてみると,救助隊として自衛隊が活動する際に於いては迷彩服は的確なのか?
目立たなければ,生き埋めになっている被災者などの目に付かず,声を上げることも出来ないではないか.
体力が消耗している状態で声を出すのは,さらなる体力の消耗を招く.だから,最も重要な時点で声を出し,不必要な時には黙っていなければならない.
目立つ服装であれば,近くに来たときに声を上げて自分の存在を知らせることが出来るが,目立たなければ行き過ごしてしまうかもしれない.
自衛隊に出動要請が発せられる場合には災害発生から時間が経っていることが多い.
災害救助・復旧のために服装を替えることぐらいなんでもないはずである.

少し話は飛ぶが,逆に政府や自治体の防災訓練,特に大規模災害特別措置法に基づく訓練の際,なぜ,首相や首長は作業着に着替えているのか?
しかも,おろしたての折り目がキレイに残っている作業着である.違和感を覚えずにいられない.
自然災害は突発的に起こるものである.とりわけ大規模災害特別措置法は東海地震を対象としている.
実際の大地震の発生とそれに伴う震災が生じたときには作業着に着替えている暇などないだろう.
“おっ取り刀”という言葉があるが,取るものとりあえず,刀だけひっつかんで馳せ参じるという意味である.
それに統括して指揮を執る人間は,最前線の現場に立つのではないから作業着に着替える必要もない.
もし夜中なら,一般の人々は寝間着で,まさに文字通り着の身着のままで避難することになる.それが現実ではないのか.

正反対ではあるが,どちらも実際的ではなく,形式にこだわりすぎて逆をやっているような気がしてならない.

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2004年11月10日

自然災害への備え

言い尽くされているが,今年は本当に自然災害が多い.
次々に襲来する台風,火山噴火,そして今も強い余震が続く新潟県中越地震.
幸い,私の住んでいる地域は,どれについても直接的な被害が出ていない.
しかし,いつこうした自然災害に襲われるともかぎらない.
特に今懸念されているのが,東海~南海地震である.
しかも,過去の地震記録を見ると,東海地震と南海地震が同時発生したり,わずかの期間で連続的に発生したりすることが多い.
東海~東南海~南海地震が同時発生すると,関東~九州の太平洋側が全て被災地になる.
兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災以降,日頃から非常持ち出し袋に懐中電灯や非常食などを用意しておくようにと言われているが,
今回の新潟県中越地震で非常持ち出し袋が役立ちましたという被災者の声は聞いたことがない.最大約10万人の被災者の方々が避難したというのにである.準備した人が一割いれば一万人のはずであるのに.
そして,役立っていれば非常持ち出し袋の有効性が証明されたことになる.
局地的な災害であれば,兵庫県南部地震や新潟県中越地震の例でも3日程度で救援物資がほぼ行き渡り,周辺地域から救援に駆けつけることも出来る.
運良く身体は無事で,それまでの3日程度をしのげるのであれば,非常持ち出し袋も十分役立つと言える.
しかし,東海~南海地震が発生した場合には,被災地が前述のように広域となる.このときどこから救援が来るのだろうか.3日どころでは済むまい.
災害報道を見ながら考えているが,まだ結論は出せていない.
どなたか良いアイディアはないものだろうか.

2004年11月30日

政権は100年で破綻する

完全に私見である.
ただ,日本有史以降,すべて合致する.
大宝律令から約100年後,荘園によって律令制が形骸化し有名無実になり摂関政治へ.
鎌倉開府から約100年後,元寇をきっかけに幕府が弱体化し後醍醐天皇の蜂起により滅ぶ.
室町開府から約100年後,応仁の乱が勃発し,幕府が弱体化,戦国時代に突入する.
江戸開府から約100年後,幕府財政難と共に徳川将軍家が絶え,徳川吉宗が征夷大将軍に就任.紀伊徳川家に乗っ取られる.
さらに約100年後,開国~大政奉還~戊辰戦争~明治維新である.

さて,近代・現代の体制も100年に到達している.限界に近いのではないだろうか.
何をもって100年とするかの判断は難しいが.明治維新から130年か,選挙による政党政治から100年か,第二次大戦終結から100年とするか.
おそらくは,選挙による議会政党政治開始から数えるのが妥当と思われるが,こればかりはごく遠い将来から見てみなければ判断できないことかもしれない.
しかし,現在,様々な矛盾が噴出している.
環境問題に関しては,30年以上前から公害問題として顕在化している.官僚制の硬直化でどこの自治体も国の省庁も立ち行かなくなってきている.
30年前までならば,ここで『革命』という言葉を使ったところで何も不思議は無かっただろう.
しかし,事実上,社会主義国家建設の実験が大失敗に終わった今,これも夢のまた夢である.
ソビエト連邦については,100年もたなかったのである.
だからといって,資本主義が優れているかというとそうではない.自然発生的に発展してきた経済体制なので人心に受け入れられやすかっただけである.
その日本資本主義も,グローバル化,ボーダーレス化で矛盾の顕在化がさらに加速度的に進むのではないだろうか.

既に近代・現代の体制も破綻していることを意識しておかなければならない.

2005年01月02日

正月に思う

世間でもよく言われているが,年々正月情緒が失われているように思う.
あまりに世の中便利になりすぎである.だから普段と印象が変わらなくなってくる.
正月は休むもの.おせち料理は,家事をサボるために比較的日持ちする質素なものなのである.
古来から正月はかきいれどきとされている商売は別として,
ユダヤ教のサバトのようにせめて元日だけでも労働活動はすべて活動をとめるべきではないか.

2005年01月21日

一芸名人

2004年の若手ピン芸人でもっとも注目されたのは,言わずとしれた“ギター侍”こと波田陽区だろうが,
早速,今年一年もたずに飽きられるだろうとも言われている.しかも,かなり世代的にピンポイントの受け方である.
しかし,似たような芸のスタイルでベテランで長く続けている人も考えてみればいるのである.
“なんでかフラメンコ”の堺すすむやウクレレ漫談の牧伸二.
この二人の芸は,かなり普遍的でいつ聞いても面白いと思える.
私は個人的好みとして波田陽区の芸は面白いとは思えないが,
しかし,忘れられようがどうしようが続けてさえいれば,
堺すすむ,牧伸二クラスになるのではないだろうかと思っている.
いや,むしろ,ポッと出のピン芸人として消えて行くのではなく,改めてどちらかに師事したらどうかと思う.
そうすれば,いつの時代にもどの世代にも通じる,“ギター侍”が誕生するのではないだろうか.

徒弟制度というのは時代にそぐわないと思われがちであるが,やはり,弟子時代を経験した芸人は底力があるように思う.
違う見方をすると,弟子時代で芸人として既に淘汰されてしまうが故に残って行くとも言えるかもしれないが.

2005年04月26日

型式

小学生の一時期,ゼロ戦に興味を持ったことがあって一冊図解本を読んだ.
ゼロ戦とは零式艦上戦闘機であり,米軍パイロットにもZERO FIGHTERとして恐れられたことから,逆輸入名称のような形で定着したものである.
神風特別攻撃隊を初めとして第二次大戦時の悲劇的な逸話がついてまわる機体だが,
航続距離,運動性能を初めとして間違いなく日本の航空技術史上類い希なる傑作戦闘機である.
その本には開発の経緯についても少し述べられていて,先行の海軍制式戦闘機に九六式艦上戦闘機というのもあった.
九六式と零式の明らかなる違いはランディングギア(車輪)の飛行時の状態である.
九六式は脚を伸縮式にして車輪に流線型の覆いを取り付けていたのに対し,零式は主翼底部に折りたたんで空気抵抗を減らすというものである.
そういう技術的進歩は分かるのだが,なぜ,九六式のほうが旧式で零式を冠した戦闘機が新型なのかが小学校低学年の私には分からなかった.
しかも,ゼロ戦にフロートを取り付け,飛行艇として運用された二式水艇という機体もバリエーションとして存在した.
型式の場合に零(0)という数字が使われうるのか.そのあたりの解説はまったくなかった.
西暦1930~40年代で昭和10年代,関連しそうな数字は全くない.
そういうことに興味を持っていた事すら忘れていたが,最近になって違うきっかけで思い出し,また,その二つが見事に合致したのである.

日本では,戦時中,敗戦まで元号によらず,かつ,西暦ではない年号が使われていたことに気付いたのである.
それは,神武天皇の即位を紀元とする皇紀である.敗戦による皇国史観の全否定によって使われなくなった.
初代神武~九代開化天皇が存在しないことが定説で,また,大和朝廷の成立が三~四世紀とされている事から考古学上も正しくはないとされている.
が,明治憲法以降,特に第二次大戦中,大日本帝国は,現人神である天皇がおわす神国であるという皇国史観が国の全てを支配していた.

ゼロ戦とこの皇紀が非常に関連が深いことに気が付いた.
皇紀2600年(西暦1940年/昭和15年)に制式採用された記念すべき海軍制式戦闘機が零式艦上戦闘機=ゼロ戦ということなのである.つまり年式である.
同様に先に紹介した九六式は2596年,二式水艇は2602年に制式採用された機体ということになる.
現在では皇国史観の否定で皇紀は一部の右翼政治団体のみしか用いないし,使用する事自体がドイツにおけるナチス同様一般市民には憚られるものである.
(1987年の朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行声明文の末尾に皇紀2647年と書かれていたような覚えがある)
しかし,ゼロ戦の解説をするなら誤った皇国史観と軍国主義への反省も含めた上で皇紀の年式であるとの説明も必要な事である.
まったくもって「臭いものには蓋」である.
(プロペラ戦闘機ファンのサイトには皇紀を併記して解説されている方々も少なくない)

昨今の日本と周辺各国との軋轢もこういう片手落ちなところが原因となって主張の行き違いがエスカレートしていることが多いように思えてならない.

2005年05月23日

整列乗車に物申す

ここ10年くらいで大阪でも整列乗車が定着してきた.大阪人もマナーが高まってきて結構なこと,と思われる向きも多いだろう.
ところが私は,以前から現状の単純な整列乗車の不合理を感じていた.
実は,鉄道会社の手前勝手な“貨物管理”ではないのかと特に最近思うのである.
プラットフォームのアナウンスに「階段付近に固まらずに」とか「中程の車両が比較的空いております」というのがよくあるが,
これを促すどころか妨げているのが,プラットフォーム上の行列なのである.

・停車位置が決まっているので,その前に2列で並ぶ.
 →ラッシュ時には当然のごとく列が長くなる.
 →プラットフォーム内の移動には“人の壁”を“何枚も突破”せねばならない.
・列の最後尾はプラットフォーム両端から列が延びて重なっているので実質ないに等しい.
 →空いたスペース=プラットフォームの縁を歩かざるを得ず,転落や列車との接触を招き,危険である.
・列と列の間は人の密度が低く効率的にプラットフォーム面積が利用されていない.
・列車到着時には扉の両側に列が崩れて横に広がる.
 →扉の片側を空けるようにアナウンスされているが効き目なし.
 →降車した乗客は左右どちらにも“人の壁”で袋小路である.
 →片側に寄ったとしても,降車客の進む方向によっては“人の壁”が立ちはだかる.

乗客にとっては,不都合さえあるがメリットはないし意味もあまりないのである.
乗客にはメリットがないが,逆に駅員にはそれまでと比べて大きなメリットができた.
それは,曲がりなりにも列らしきものがあるので,乗車を打ち切り易いのである.
あまり乗客にとって安全で快適とは言い難い条件を数多く揃えてしまうのが現状の単純な整列乗車なのである.
先の福知山線の転覆脱線事故と同根と思えてならない.
なぜならば,私は通勤に近鉄とJR環状線を利用しているが,整列乗車をうるさくアナウンスしているのはJRのほうであり,近鉄はさほどうるさくない.
近鉄とて混雑具合はJRに引けを取るものではない.
JRは,何を置いても定時運行至上主義で,乗客を人間とは扱わず,貨物と同等と考えているのではないかとさえ思えてくる.
安全第一の意味を理解できているとは思えない.
これは,言い過ぎとしても,線路に対して直角に並ばせるのではなく,角度を付けるなり,行列を折り曲げるなり,整列乗車の弊害を改善するための工夫をして欲しいものである.

安全第一とは,安全という言葉で工事現場や工場などでしか当てはまらないと思われがちだが,
安全とは作業環境を整えるということであり,実はデスクワークであっても当てはまる.
全て列記すると安全第一,品質第二,生産第三と続く.
作業環境を整えることにより,仕事がしやすくなって品質確保も生産効率向上も同時に図れるという実例(20世紀初頭のUSスティール社)に基づくスローガンなのである.
すなわちJR福知山線の事故は,全く逆で,安全を軽視し生産性を過剰に重視したがために,運転士全体の技能(品質)低下を招き,約2ヶ月運行停止(生産の停滞と損失)という結果をもたらしたわけである.
私自身,福知山線快速電車を通勤に使っていたこともあるので,決して他人事ではなかった事故である.

そもそも順番と秩序を構築するために整列乗車を行うのだから,
整列乗車するなと言っているのではなく,無意味で非合理的な整列をさせるなと言いたいのである.

2005年06月01日