昨年は劇場映画で武士をテーマにした作品が海外でも話題を集めた.
武士のことは海外でもサムライと呼ばれて浸透している.
サムライとはどのようなイメージでとらえられているのだろうか.
日本文化のダンディズムの代表でストイックな一匹狼だったりするのだろうか.何がきっかけなのだろう.黒澤明の映画だろうか.
この外国人がとらえるサムライというのは,どうも間違えていて,それにつられて日本人も正しく理解していないのではないだろうか.
サムライは漢字で書くと侍である.
この字は現在も使う.「人を侍らす」とか,侍従と呼ばれる人たちが宮内庁の職員の中にもいる.
侍とは,“さぶらう”が名詞化したもので「そばにいる人」という意味である.侍女をサムライ・レディなどとは言わないだろう.
つまり,サムライを英語的に解釈するとBody Guardである.決して一匹狼ではない.貴族に付添う“武装したお付きの人”である.
武家政権は,平安時代末期から明治維新前まで約700年間あったわけだが,武士が政治の実権を握っても決して朝廷を滅ぼすことはなく,権力の二重構造が続いた.
しかも,朝廷に常備軍がないことにつけこんだ,律令にはない非合法の軍事政権,それが幕府である.
そもそも鎌倉幕府は武士の組合が圧力団体化し,そのまま政治を執ったようなものである.
このような政治の二重構造は日本でのみ見られた現象である.あくまで武士は朝廷を守るものという不文律の大原則があったためである.
平氏と豊臣氏の失敗は朝廷そのものに入ろうとしたことである.
武士道倫理を説いたと言われる,鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』に「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があるのは有名である.
“武人”として捉えるのであれば,“さむらい”よりも武士・武者の和語表現“もののふ”という言葉に,私は,誇り・プライドを含んだものを感じる.
NHK大河ドラマでいくつか印象に残っている台詞がある.
『炎(ほむら)立つ・第一部』で,奥六郡の実質的支配者・安倍氏討伐(前九年の合戦)のための朝廷軍として参戦していたが義弟平永衡が源頼義に謀殺されたことを知り,妻の親元安倍氏側に寝返る際の藤原経清の言葉.
「今の国を国とは思わん.すべては奥六郡の黄金に目が眩んだ欲の亡者のなせる戦じゃ.その手先となって死ぬるは,もののふの本懐にあらず.
その国のために命など捨ててどうする.まずは,妻や子のため親のためにもののふとして生きるのだ.男として生きるのだ.」
また,安倍軍が大勝した黄海(きのみ)の戦で,安倍軍の姿に身をやつして敗走するかつての部下に経清がかけた言葉.
「もののふにとって,義のない戦ほど切ないものはない.」
『八代将軍吉宗』で,紀伊藩財政建直しのために質素倹約を旨とし藩主自ら率先垂範して冬でも木綿の着物で通す紀伊吉宗が将軍綱吉に寒くないかと問われて切った見栄.
「吉宗はもののふにござりますれば」
実際のところ,外国人には“もののふ”は発音しにくいだろうとは思うが.
物部と もののふ は語源としては同根だそうである.