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2003年6月20日

原典を知れ!

今,「MATRIX - Reloaded」がヒット中ですわな.
現在の映像テクノロジーがあるからこそ実現できた映画です.
まだ観てませんが,前作も確かに“映像的には”,面白かった.
そこは,動かしがたい.
ただし,SFとしては,そんなに新しいものじゃない.
ジャンル的には,20年ほど前にウィリアム ギブソンが「クローム襲撃」や「ニューロマンサー」,
「モナリザ・オーヴァードライヴ」で始めた,“サイバーパンク”と呼ばれるもの.
具体的には,現実空間と電脳空間の往来が舞台.
別にケチ付けるわけではないですが,前作を観たときも「そんなに騒ぐほどのもの?これ?」って思った.
「やっと,サイバーパンクを映像化できる技術が開発されたか」くらいなもので.

この映画が話題にされるときに“サイバーパンク”という言葉が全く出てこないだが,どういうことだ!?
映画とSF小説の間に“映画=オシャレ×SF小説=オタク”とか差別的概念が存在するんじゃないのか!?
ハッキリ言って,小説読む方が文字だけで情景を想像しなければならない高い知的能力を要求されるし,
映画館のスクリーンよりもイマジネーションのスクリーンの方が遙かに巨大なのだよ!

2004年11月11日

御館(みたち)贔屓

最近読んだ本が『「金色堂はなぜ建てられたか-金色堂に眠る首級の謎を解く-」高井ふみや著・智慧の海叢書』.
通説となっているのが,清衡・基衡・秀衡の遺体と泰衡の首級が金色堂の須弥壇下に納められているということだが,
伝忠衡の首級が昭和25年の金色堂解体修理に伴う調査によって泰衡のものと断定されたその首級は清衡の父,前九年合戦で源頼義によって鈍刀で首を擦り斬られた藤原経清なのではないかという内容で書かれている.
確かに,首級に残る傷の数々,前九年・後三年合戦の経緯を鑑みると初代清衡が自らのためよりも,父経清および安倍一党の供養のために中尊寺金色堂を建立したとするほうが自然である.

また,2005年のNHK大河ドラマの題材は,源義経.
この題材になると,当然描かれるのが,弁慶の立ち往生で有名な衣川での義経の最期である.
奥州藤原四代泰衡の無能さが強調されるわけであるが,この出典根拠は「吾妻鏡」のみである.
「吾妻鏡」は"鎌倉幕府の記録"であり,客観的な記録ではない.
つまり,鎌倉側即ち源氏とりわけ頼朝を正当化する目的で書かれたものであり,非常に一方的なものであると考える.
以前にも書いたとおり,私は,奥州藤原に対して思い入れがある.したがって泰衡は決して無能な人間ではなかったと思いたい.
平泉側の記録が残っていれば,また,違う記述があったのではないだろうか.
しかし,仮に当時存在していたとしても,平泉政庁とともに灰燼に帰したこともさることながら,それ以前に鎌倉の手によって,抹殺されていただろう.
武家政権は二つ共存し得ない.
両雄並び立たず,で,時代が鎌倉を選んだだけであろう.
むしろ,初めから義経を奥州に追いやり,平泉を滅ぼす口実と成したかった.上手くやりおおせた謀略だったのではないか.
源氏という血筋は,保元・平治の乱でも分かるとおり,身内でも殺し合う血筋である.実の弟であろうが無関係である.
恐らく,平泉が差し出した義経の首は,偽物であろうと私は考えている.
そして鎌倉側もそれを分かっていたから,頼朝自身による首実検に至らず海に打ち棄てられたのであろう.
それが本物であろうと偽物であろうとどうでも良いのである.
朝廷に圧力をかけて平泉を朝敵となし,自分の父祖,源頼義・義家父子が前九年・後三年合戦で行ったことをたどりたかっただけなのである.

2005年1月15日

読むつもりの歴史小説

先日,仕事帰りに書店に寄ると,少し探していた「まほろばの疾風(かぜ)」(熊谷達也著)の文庫本が歴史小説フェアということで平積みになっていた.
とともに「風の陣-天命編」(高橋克彦著)も昨年暮に出版されていたようで,とりあえず購入だけはした.
「炎立つ」から10年以上になるが,古代奥羽地方の歴史に対する興味は未だに尽きない.

さて,「まほろばの疾風」は少し読み始めたところである.この作品の主人公は,大墓公阿弖流為,つまり高橋克彦氏の「火怨」と同じ人物を描いていることになる.
「風の陣」は第一巻である立志編から新刊書で読みつづけている.「火怨」「まほろばの疾風」の舞台となる時代の数十年前である.
「風の陣」には征夷三十八年戦争の発端となる人物,伊治鮮麻呂も登場している.
作家の解釈と創作によって人物像や背景が若干異なるのは当然のことであるが,
時間軸で言うと,既に道嶋嶋足(「風の陣」主人公)のような人物を輩出しているにも関わらず,
まだまだ導入部と言えど,熊谷氏の描き様は,あまりに奥羽を文明の立ち遅れた土地としているような気がしてならない.
もちろん,一般民衆の生活はそうかもしれないが,何万という朝廷軍に立ち向かうだけの智略を備えた人物が領袖となる人々である.
族長候補レベルの若者が,自ら山中で捕らえた熊を解体してその場で鮮血を飲むようなことをするのであろうか.

高橋氏は,おそらく「風の陣」と「火怨」を矛盾無く繋がった物語とするのではないかと期待しているが,
熊谷氏は,既に繋がっていないようである,伊治鮮麻呂を描いた「荒蝦夷(あらえみし)」(文庫化されてから読もうと思う)では,阿弖流為の人物像が全く違うということである.

何にせよ,本筋に入っていくのはこれからである.
読後に「火怨」と「まほろばの疾風」の作品比較を行ってみたいと考えている.

2005年1月25日

「火怨」と「まほろばの疾風」

「まほろばの疾風」(熊谷達也著)を読了した.
同じ阿弖流為(アテルイ)を主人公に据えた「火怨」(高橋克彦著)と比べると熱さは欠けるように感じた.
三十八年戦争の顛末を追うだけならば,史料を繙けばよい.
しかし,この物足りなさは何なのか?背景が希薄なような気がするのである.
私が少々気に入らないのは,蝦夷(えみし)=アイヌという前提で進みすぎなのではないか,と言う点である.
アイヌ文化は少なからず持っていただろうが,
人類学的にはヤマト民族と大きく変わらないのが蝦夷という存在であるというのが大方の見解となっている.
同じ蝦夷という文字であるが,エミシ≠エゾなのである.
阿弖流為の参謀的役割を務めた母礼(モレ)を単純に母の字を当てているからといって女性とするのも少々安直な気がした.
熊谷氏は,国家としての政治体制が確立していないが故に大和朝廷に破れたというスタンスを取っているが,
そのあやふやな原始的組織に対して海を隔てた渤海国が交渉相手としうるのかという疑問も残る.
また,朝廷の征東・征夷の発端となった,金の産出,機能的な刀剣,大柄で良質な軍用馬などなどの技術的根拠がないのである.
「火怨」では,これらの根拠を蘇我氏との政争に敗れて奥羽に逃れた物部氏の末裔に求めている.
それは,他の高橋氏の古代東北を舞台にした「炎立つ」「風の陣」も一貫して「東日流外三郡誌」を下敷きにしているからである.
「東日流外三郡誌」は偽書の烙印が押されており,全面的に肯定するわけにもいかないが,その精神は決して否定する物ではないと思う.
口頭伝承を近世になって文書化した物かもしれない.

そして,共通して描かれたのは,阿弖流為が最後まで貫いた蝦夷としての誇り,民衆への心遣いと敵将・坂上田村麻呂への信頼である.
物語には描かれていないが,阿弖流為と母礼の処刑の後,清水寺を蝦夷供養の拠り所としたことが田村麻呂の思いを表しているだろう.

2005年6月28日

プライド 運命の瞬間

1998年東映・主演:津川雅彦.

昨今,国内外で大変な耳目を集めている靖国参拝とA級戦犯について見直してみるつもりでレンタルビデオで観た.
津川雅彦が東條英機役である.見た目はそっくりと言っても良いのではないだろうか.
3時間近い大作であったが,長くは感じなかった.再生ボタンを押して観始めたのが21時半過ぎ,気がついたら日付が変わっていた.
極力BGMを用いたかったこともノンフィクション映画として説得力を増し,効果的であると思う.

東條を中心として東京裁判の不当性を糾弾する目的で制作されたのだろう.制作発表からかなり周辺諸国から非難されて話題になっていた憶えがある.
ノンフィクションとは言え,ドキュメンタリーとは100%言えないし,演出や役者の芝居で相当に印象が変わる.
ドキュメンタリーと言えども『華氏911』でも分かるように,演出はいかようにでも可能である.

弁護側の原爆投下や都市への空襲を引き合いに出した同時通訳が意図的に打ち切られたり,
最終的な判決のみで各国判事の評決文の朗読がなされなかったりという,連合国(合衆国)側の意図的な悪意が強調されている.
他の部分は置いてもこの部分だけでも十分に価値があるのではないだろうか.

休廷中のホテルでの裁判長と検事のやり取りなどは事実か虚構かは東京裁判について精査したわけではないので分からない.
結果的にインドの英国からの独立を日本が後押ししたことを前面に出して,大東亜共栄圏の正当化をしようとしているが,陳腐に映った.
むしろ,江戸末期の不平等条約~開戦前の経済封鎖や南京大虐殺がでっち上げであったくだりをもっと強調すべきだったのではないか.
東條以下7人の閣僚役にそうそうたる俳優陣を配していながら,ほとんど並んでいるだけである.
インドの判事に日本の被告は毅然としていたと台詞で言わせるならば,前述の部分はカットしてでも,各人の証言シーンを入れるべきだったのではないか.
東條英機という人物像だけを描きたかったのか? 長くは感じなかったが無駄な部分も多く散漫な印象を受けたことも事実である.

観終った後の印象は,50年経っても合衆国のやり口がアフガンやイラクに対するものと何ら変わっていないのではないかというものである.
見事に陥穽に嵌められていいように改造されてしまっただけである.
しかし,今となっては帝国憲法下の体制が続いていたらどうなっていたかという議論も空しいことである.
普段から報道や教育の場で「かつて日本はファシズムに毒され諸外国に対し暴虐をはたらきました.反省しましょう.」という基調に浸されている.
東條の姿勢を肯定しようがしまいが,その人の勝手だが,せっかく映画という比較的とっつきやすいメディアに落としてくれているのであるから両方を知ってそれぞれの判定を下してみても遅くはないと考える.
もちろん映画だから主人公を美化していることは否定しない.しかし,少なくとも映画を見る限り賛美しているようには見えなかった.
そんな中,戦争犯罪を追及した『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三氏が亡くなった.

2005年8月30日

縦に書け!横書きが日本人を壊している

著者:石川九楊 祥伝社刊

この本に述べられていることに賛同しながら,PCでインターネットを介したブログにその感想をしたためる,というのは自己矛盾を生じているという思いを禁じ得ないが.
書店で挑発的な題名とそれを強調する単純な表紙が非常に目を惹いた.
帯に書かれていることが極論に思えて,そういうのを読んでみるのも良かろうと思って購入して読んでみた.
各論それぞれについては,納得できない部分もあるし,自分はそうではないと思った部分も少なからずあった.
筆者の主張もよくわかるが,氏はまったくPCも携帯電話も触らない.触ってから両方の特性を論じてほしかったと思う.
筆者は書家であり,手で文字を書くことについての造詣は非常に深くある.
それに縦書きを強調されているが,数式を扱う技術文書はどうするのだと思いながら読み進めて行くと結局は例外扱いされていた.
英語,数学(算数)と理科以外の教科書は縦書きにせよとは,もっともだと思う.
確かに私が小学生の頃の教科書は国語以外にも社会科は縦書きで,中学校に進学して社会化教科書が横書きになっていたことに違和感を感じた覚えがある.

筆者の主張では,言葉を扱うのにキーボードを打つという動作変換の不自然さが現れているということである.
その主張もわかるが,私個人のことを述べると,このブログ用の文章を打っている時の思考は,筆者が主張する“手書きで文章を考える際の思考展開”と何ら変わらないと思っているが.

本書にも述べられていると同時に最近強く思うのであるが,新聞の記述がますます深みがなくなっているように思えてならない.
特に朝日新聞の「天声人語」は私から見ても質が落ちたのは明らかである.私がこのブログで書いているほうがよほど中身があるのではないかと思うほどである.
本論は,横書きをすることに重きを置いて非難しているのではなくて,産業の道具としては十分にその効果は認めるが子供にケータイ,PCを触らせるなということである.
何度となく私も主張しているが,デジタル万能ではない.人間は基本的にアナログ活動をするものである.
極論を読んで批判するつもりだったのであるが,少々,納得できない部分はありつつも,結局,私の意見と異口同音だったわけである.

私自身も携帯電話やPCを利用しているが,子供の頃にこんなものがあったらかなり難儀なことになっているのではないかと自分で感じている.

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2005年9月16日

“改革”の結果がどう現れるか

『逆説の日本史 第9巻 戦国野望編』文庫版P423L13~P426L5に,今回の総選挙での小泉純一郎の勝因(重ねて言うが自民党の勝利ではないと思っている)と民主党の敗因が既に書かれていた.
4年前の週刊誌の連載がハードカバー単行本を経て文庫版として出版されたその数ヵ月後に総選挙の結果として現れるこの符合に驚いている.
引用するには長いので,是非,実際に読んでいただきたい.
既に4年前にこのことを指摘していた井沢元彦氏,何もできなかった民主党,派閥を有名無実にして国民を動かした小泉純一郎氏.
実際には,指摘として書かれている内容は目新しいものではない.その事実を動かした者と動かせなかった者の差である.そしてイメージ戦略.
小泉氏が信長に心酔するようになったのは,いつ頃からかは知らないが,もし,ここ10年以内ならば井沢氏の影響だろうか.
しかも,戦国武将としてではなく改革断行者として,であるので本物であろう.戦国武将としてなら単なるファンである.
本当に改革が進んでいるのかという疑問は,ひとまず置く.そして,早々の比叡山焼討ち(公明党の与党からの切捨て)を期待している.
この『逆説の日本史』シリーズ本筋は“逆説”なので日本史エンタテイメントとして楽しく読んでいるのがいいと思うが,現代との対比が非常に的を射ており,本当に興味深い.
時間とともに,この“逆説”が“通説”になっていくのも痛快である.

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2006年8月29日

愛とまぐはひの古事記

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大塚ひかり著KKベストセラーズ刊

私が梅田旭屋書店本店で最もよく利用するのが6階の理工学書コーナーであるが,上から順繰りに階段で下り,必ず足を止めるのが歴史関係のコーナーである.
1年ほど前だったかに本書を手に取ったものの購入には至らなかった.
最近,思い出し,読みたくなったが書名が思い出せない.
ネット検索で我ながら大概恥ずかしい検索語で調べた末にようやくたどり着いた.その書名は標題の通りである.
もともと記紀神話には興味があって,講談社学術文庫の対訳付きのものやら,特に古事記で言うと梅原猛著の現代語訳やらを読んだが,本文中の歌が情熱的で美しいなどと書かれているものの,古典脳ではない私には全くピンと来なかった.
大抵の記紀の解説本は大学の文学者によるもので,素人にとっての情緒感に欠けていたように思っていた.
発行当時,平積みになっていたのを見たときはセンセーショナルだった.(と感じながらなぜその時購入に至らなかったのか自分でも謎である)

よく言われていることは,仏教的道徳観も儒教的道徳観も輸入されていない古墳時代くらいまでは,古来日本人は性に対しておおらかだったことが古事記から伺えるということである.
“まぐはひ”とは,本文中の説明を引用すると単に性行為を指すのではなく「目と目を合わせ,見つめ合い,愛の言葉を交わすことから始まり,愛撫挿入後戯といった性交全般を表しつつ,結婚まで含んだ幅広い意味をもつ言葉」であると書かれている.今で言う“エッチ”ではない.
そもそも私はエッチという言葉は嫌いである.なぜならば元は“変態”のローマ字表記頭文字から来ているからである.性行為を指すのであれば至って“通常”である.
などと考えていると,“まぐはひ”とは非常に好感の持てる言葉であると思えてくる.
男女とはこうあるべきと,この“まぐはひ”という言葉が表していると言えるかもしれない.

しかし,本書を読みすすめていくと,著者が現代に照らし合わせればこういうことであるという述べ方をしてくれている上に,とがしやすたか氏の2~4コマ漫画的挿絵のおかげで,生まれてくる子が男か女かを賭けの対象にしたり,おおらかというよりも自らの行為の結果に対してこんなに無責任で良いのか!?と思えるほどである.
最も端的なのは,アマテラスの孫,ニニギノミコトがイハナガヒメとコノハナサクヤヒメの姉妹のうち,ブサイクなイハナガヒメを追い返し,コノハナサクヤヒメとの“まぐはひ”の結果できた子を自分の子ではないと断定して同様に追い返してしまうことであろう.
現代ならば“サイテー”な男のそしりを甘受せざるを得ないような神が,初代天皇神武ことイワレヒコの曾祖父なのである.
なおかつ,イワレヒコの皇后の母は,溝を跨いで脱糞中に丹塗り矢に化けたオオモノヌシに陰部を突かれて後の神武の皇后を身ごもっている.
傑作なのは,妊んだが父親が誰か分からなければ“神の子”と片づけてしまうことである.おおらかを通り越して乱倫の極みとも思える.
書面によって法的に縛られるわけでもなければ,HIVの心配もない,ある意味では羨ましい時代ではあったのだろうが,古事記の編者と言われている太安万侶は,編纂作業をしていて恥ずかしいような照れくさいような感覚は無かったのだろうか.こんなことを思う事自体が,仏教的儒教的道徳観に毒されているということか.

経験学的恋愛・結婚論として古事記を捉えることもできるが,どちらにせよ古事記に書かれている事は,いわゆる貴き人々のことであって庶民を描いたわけではない.
ならば,暴論であるが,現代の天皇家もこの頃に戻れば,嗣子問題に悩まされずとも済むのではあるまいか.

2006年9月 4日

「運び屋サム」シリーズ

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「クラッシャー・ジョウ」「ダーティペア」シリーズの高千穂遥著である.
両シリーズともに小学校高学年の頃から愛読している.(「ダーティペアFLASH」は装丁がいただけないので読んでいない)
「運び屋サム」シリーズは,かつて徳間文庫から発刊されていたが長らく絶版状態にあり,かつて古本屋をチェックしていたが全く入手できなかった.
2000年にハルキ文庫から復刊されていたことを最近になって知り,即座に取り寄せた.
「クラッシャー・ジョウ」と「ダーティペア」は20年ほどのずれはあるものの舞台設定が全く同じであり,実際,「クラッシャー・ジョウ」では外伝として両者が交錯する作品もあった.
しかし,「運び屋サム」もスペース・オペラであって似たような感じはするが,全く別設定である.
「クラッシャー・ジョウ」「ダーティペア」では,基本的に地球発生の人類のみで登場人物が構成されているのに対し「運び屋サム」では,異形の異星人も何の疑問もなく周囲にいち登場人物として存在する.
ちょうど「スター・ウォーズ」シリーズに近いと言える.ついでに「スター・ウォーズ」になぞらえると,主人公サムは,ハリソン フォード演じたハン ソロのようなイメージかと思う.

「クラッシャー・ジョウ」は,偏見でならず者扱いされるものの絶対に非合法なことには手を染めない宇宙のスペシャリスト職人,「ダーティペア」は,銀河連合の犯罪トラブルコンサルタントを主人公の職業に据えているが,「運び屋サム」では,非合法な物品を運ぶもぐりのアウトロー運送業者を描いているところも二作品と比べるとやや異色ではある.
「クラッシャー・ジョウ」「ダーティペア」ともにカバー,挿絵ともに安彦良和氏の手による.
「運び屋サム」のこの装丁,オリジナルではないのだろう.イマドキ過ぎる.しかも挿絵は全く無しである.

読んでいる感触は,典型的な高千穂節で分かりやすい痛快なものである.

2006年12月 1日

紅の勇者オナー・ハリントン・シリーズ

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このシリーズはハヤカワSF文庫の翻訳版第一作が出た頃から愛読している.
解説にも書かれているが,“SF版帆船小説”と呼ばれている.
特に私は帆船小説は読んだ事はないのだが,「ホーン・ブロワー」シリーズとよく対比され英仏戦争がモチーフになっているとも言われている.

小学校高学年の頃から,高千穂遙作品や富野由悠季作品は好んで読んできたが,10年ほど前から海外原作のSF小説を読むようになり,読み漁るというほどではないにしろ,つまみ食いしてきた.
中でもこのオナー・ハリントン・シリーズはとりわけ気に入っている.
ダイナミックな戦闘描写と繊細な心理描写が特徴的な矢口悟氏の翻訳が読みやすいのである.
本シリーズで特筆すべきは,レーザー等のエネルギー系兵器とミサイル等の実体弾の使い分けが明確で,それがSF設定に説得力を持たせる結果を得ている.
また,超光速航法の技術として“ウォーショウスキー擬帆”と称するものが設定されており,スペース・オペラでありながら帆船小説の匂いを強く意識させている.

10月下旬,シリーズ第7作日本語版「囚われの女提督」が発売になった.
これまで一貫して,対艦戦や主人公オナー ハリントンの格闘描写等のダイナミズムが見せ場だと思ってきたが,今回は政治的・心理的駆け引きに重きが置かれている.
しかも,これまでは,続きがあるのは分かっていても一応の区切りはついていたが,今回は一難去って次の一難が待ち構えているというところで次作へ譲られている.
シリーズ第6作「サイレジア偽装作戦」からかなり間があいたので,第8作日本語版の発表がとても待ち遠しい.

最近何かと話題のSNS,mixiに本作品のコミュニティもあり,私も登録しているのだが驚いた事に翻訳者の矢口悟氏も当該コミュニティに参加して読者と作品についてや翻訳時の言い回しの選び方についての議論を楽しんでおられる.
作家としては,生の読者の声をリアルタイムで聞くことのできる格好の場として利用できるのだろう.
しかも,手紙などの手段では一方通行になりがちなものが,簡単に返答できるわけである.
すごい時代になったと思う反面,アマチュアとプロフェッショナルの境界が希薄になっていく,ボーダーレスと言う言葉で表現されるが,曖昧で混沌とした状況が予想される分,恐ろしいような気もする.

2007年2月 3日

「病気にならない人は知っている」Kevin Trudeau著

黒田 眞知訳

新聞下の新刊書の広告で気になったので読んでみた.
現代生活をしていく上でどの程度現実味があるものなのか興味があったのである.
しかし,ここで紹介するからといって全面的に感銘を受けたというわけではない.
なるほど,と思うことも多いが,1/4程度は眉に唾塗って読まなければならない.
オカルトじみていたり,書いてあること自体に矛盾がある.
最初に著者が「自分は医者でもなければ専門家でもない,個人的見解を述べた」と断りは入れてあるが.
たとえば,
「電子レンジで加熱した食品は電磁波によって細胞が変質しているので毒になる」と書いてあるかと思えば,「バロック音楽のCDを聞け」と書いてある.
CDというのは,ある分解能によって一度A/D変換されたものを再びD/A変換してスピーカーから出力するものだから録音された原音と再生音は全く異質のものである.
私自身が,ハードロックですらアナログ盤で聞くより,CDで聞くほうが疲れることを実感しているのである.どうも著者は認識が甘いと思わざるを得ない.
CDに問題がないのなら,電子レンジの再加熱も単に水分子を振動させるだけにすぎないから問題ないはずである.
逆に電子レンジに問題があるのなら,CDも脳と聴覚を破壊する危険なものである,という結論を導かなければならない.
家電業界がでっち上げた,私の嫌いな"マイナスイオン"は,よい効果があるものとしていることも矛盾である.
いちいち個々に取り上げていくとこのような感じで矛盾がある.
本書の全体的な論調は,利益最優先の食品業界と製薬業界が合衆国の政界・連邦行政と癒着・結託して一般市民の健康が食い物にされていることを告発しているものである.私が同じ内容を書くなら,家電業界も非難したいところである.少々バランスが悪い印象を受ける.
日本でもクール・ビズを提唱した環境省に対してネクタイ業界が反発した例を忘れてはならない.

ともあれ,本に書かれていることを無批判に受け入れない,自分なりの判断基準をもって大きな視野で読める方ならば,ずいぶんと参考になる本であると思う.
大手メーカーは常に消費量拡大のために気づかぬうちに依存症や消費連鎖を企図しているのである.
ファストフード店のMD社日本法人が"食育"と称して離島の子供たちに食べさせていたニュースが少し前にあったが,それを思い出した.
ファストフードが販売するジャンクフードなど食育の対極に存在するものであることを忘れてはならない.
化学調味料を極力遠ざけ,市販の風邪症状緩和薬品は使わないなどの心がけが必要である.

2007年4月24日

LAYLA AND OTHER ASSORTED LOVE SONGS BY DEREK AND THE DOMINOS


Jan Reid著/前むつみ訳
かの名盤『LAYLA AND OTHER ASSORTED LOVE SONGS/いとしのレイラ』の制作ストーリーである.

Eric Claptonの作品を聴き始めて20年になる.この20年,何冊かの伝記,数知れない雑誌やムックを読んできた.
普通に「Claptonっていいよな」程度のファンよりは格段に彼のことについてのデータを蓄えているつもりである.
海賊盤には手は出していないが,YARDBIRDS以降の公式のオリジナル・アルバムはすべて所有している.
とはいえ,ECファンの中ではまだまだ若造であるし,ぬるいファンであることも自覚している.
何せ,このアルバムが制作された年に生まれているのである.当然ながらリアルタイムでは知り得ない.
本書を読み始めたときに,ECの出生からCREAM~BLIND FAITHの記述など月並みなECの伝記と何ら変わらないと思ったが,読み進めるとなかなかどうして,興味深い内容である.
ドミノスの鍵盤奏者でセカンド・ボーカリストBobby Whitlockのインタビューが背骨になった内容となっているからである.
DEREK & THE DOMINOSは,ECのソロプロジェクトの最初期であるので,彼中心のようではあるが,しかしながら,その周辺の人物達についてもまんべんなく記述がある.
特にドミノス解散はECとドラム奏者Jim Gordonとの大喧嘩が原因であるが,Jimの統合失調症など,その詳細についてはあまり書かれてこなかった.
また,もう一人のこのアルバムの主人公,Patti Harrison(当時)とのことも比較的これまでより詳しく記述がある.

前にも書いたことがあるが,今までから,ECほど自分のプライベートを直接的に切り売りすることでしか作品を作れない人はいないと思っていたが,ますますその印象が強くなった.
後年に発行される本ほど,その内容が赤裸々でショッキングなものとなっていく.日本語訳された本でPattiが不妊症だったことが書かれたのはこれが初めてではないだろうか.
そのことが,誰もが知っている悲劇をさらにECに間接的に課すことになるわけであるが….

ハード・ドラッグで心身ともに蝕まれながらも感情を絞り出すように素直に表した作品であるといえる.
しかし,とりわけ美しく感じる「BELL BOTTOM BLUES」について,睡眠薬に酔いながら寝そべって書いたとかなり以前に聞いてがっかりした覚えがある.
普段,私は音楽が大好きだが,励まされたり慰められたりすることはないと言い切れる.
しかしながら,この『LAYLA AND OTHER ASSORTED LOVE SONG』だけはアルバム全体を通して胸を締め付けられるものがある.
そこまでの情熱が詰まった名盤なのである.

2007年6月11日

寝ずの番

原作:中島らも
監督:マキノ雅彦(津川雅彦)

東京出張の折,新幹線車中で読もうと短編集『寝ずの番』を新大阪のブックス・キオスクで購入して乗車した.
津川雅彦がマキノ雅彦名義で第一回監督作品として制作した映画の原作である.
らもさんの本は学生の頃からエッセイを中心に漫画代わりに好んでよく読んでいた.
「らも咄」という創作落語の作品や自らも落語を演ることもあったので落語には造詣が深い.
そんなこんなで興味があって,この短編集を読み,映画ビデオを観た.
いままで,原作付き映画を観て,原作のイメージが損なわれていると思ったことが多かったが,本作はほぼ原作通り.
映画ということでアホネタに終始することなくホロッとさせるところを追加しつつも原作のおもしろさも殺していない.
長門裕之や笹野高史,岸辺一徳と曲者の役者ばかりである.面白くないはずがない.
昨今,話題の北野武や松本人志監督作品のように俳優・津川雅彦としては出演していない.
マキノ雅彦として監督のみである.

内容に関わることに少しふれると,上方落語の一門が登場人物である.
主演の中井貴一や木村佳乃というキャストを見て,江戸落語に置き換えているのかと思ったが,原作通りの上方落語ということでやや不安だったのだが,皆おおむね上方ことばがサマになっていた.関西出身の役者が多いので当然といえば当然である.
端々にちょっと違うというところもあったが立派なものである(あの芸達者なはずの堺正章を除いて…,大阪弁については1カット出演のイーデス ハンソンのほうが格段に上である).
ただ,残念なことに絶対にこの作品はテレビ(少なくとも地上波)では見ることができない.
性器を指す放送禁止用語が連発されるのである.しかもカットすればすむような場面ではない.話のキーなのである.
らもさんの作品としてはいつものごとく,であるが,マキノ映画の復活作品としてよくもこれが選ばれたものである.
もっと不可解なのが,この作品は芸術文化振興基金助成事業の補助を受けた文化庁支援作品なのである.
冒頭に木村佳乃のドライな濡れ場(?)はあるわ,クライマックスは女性陣も巻き込んでの下ネタのちょんこ節の歌合戦である.

少しでも上方落語の知識があれば,誰がモデルかは想像がつく.
長門裕之演じる笑満亭橋鶴とは,名前と「らくだ」を十八番とするその豪放磊落なイメージから,六代目笑福亭松鶴,そして石田太郎演じる落語作家の小田先生とは小佐田定雄氏であろう.

2007年9月15日

風の陣(風雲篇)・高橋克彦著

新刊を心待ちにしている小説の一つで1作目立志篇の発刊から愛読している.
シリーズ4作目.相変わらず,読んでいて熱い.
立志篇の発行が1995年である.新刊で常に買っては読んでいるのだが,困ったことに新作が出る頃には前作は文庫化されているほどスローペースである.
新たに読み始めた方にとっては厄介なものだと思う.ハードカバーの新刊をたまたま手にとっても前作は全て文庫本なのである.

“まつろわぬ民”と呼ばれた陸奥に住む蝦夷(えみし)の出自(元は渡来系といわれる)を持ちながら,正四位上の位階にまで昇った道嶋嶋足を主人公に据え,蝦夷の側から奈良時代の朝廷の内紛を描いたのが本作品である.
立志篇での橘奈良麻呂の乱
大望篇での恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
天命篇での弓削道鏡御託宣事件
今回の風雲篇では,道鏡の失脚が中心に描かれている.
この時代,よくもこれだけ短期間に大事件が立て続けに起こったものである.
まだまだ,少しの振り程度であるが,後に互いに敵将として戦うことになる,坂上田村麻呂と阿弖流為(アテルイ)が十歳頃の少年として登場する.
史料には嶋足の晩年は詳しく記されていないのだが,後に伊治公呰麻呂(本作中では鮮麻呂)の乱に端を発する三十八年戦争が待っている.
歴史では嶋足の同族,道嶋大楯が呰麻呂に殺害されるのが呰麻呂の乱である.
大楯とともに呰麻呂に按擦使として殺害される紀広純も本作で登場した.
題材が史実である.異説本ではないので脚色はともかく要所の史実を曲げる訳にはいかない.
結末は悲劇以外にあり得ないのは想像に難くない.
同じ高橋克彦の作品で阿弖流為を主人公とし三十八年戦争を描いた「火怨-北の燿星アテルイ-」は,嶋足本人はその場にいないものの悪し様に言われる場面から始まる.
現在雑誌連載中の五作目の副題は,裂心篇である.嶋足に代わり,鮮麻呂を主人公に据えてあるそうである.
次作,裂心篇がおそらく最終章となり,「火怨」に繋がる結末(呰麻呂の乱の直前)を迎えるのだろう.
これまた,待ち遠しい限りである.

2007年11月13日

国家の品格・藤原正彦著

「○○の品格」と題した本が多数出ているが,どれが最初だったのだろう.
この本は,もともと母親の所望で購入した,母の読んだ後で借りて読んだ.
私にとっては危険な本である.あまりに読んでいて心地良いのである.
傲岸不遜な言い様になるが,新たに感銘を受けるような内容は全くなく,普段,ぼんやり考えていることを具体的に著してくれたという以上のことはない.
もちろん,私にここまで具体的に著すことができるかと言えば,答えは否であるが.
母親に,この本を読んでそんなに感銘を受けたか尋ねてみたが,やはり,当たり前のことしか書かれていないと思うとの答えだった.
家族でTVニュースなどを見ながら議論して自然と出てくる結論ばかりなのである.
たとえば,小中学生の道徳教育用の読本ならばわからないでもないが,大人のための新書である.このことを情けなく思う.
この本が売れているというのは,どういう理由によるものなのだろうか.
私が感じたような心地良さを得るため,あるいは自身の考えが間違っていないことの再確認のためなのだろうか.
目から鱗を落としたような人はいるのだろうか.そんな人が多数であることこそが,日本の社会が病んでいる憂うべき事態である.
何も今さら大上段に構えて言われることではない,と言う人が大多数を占めていると信じたい.

そんな中で,これは,と思ったことが最終章にあった.
結びの章の題が「国家の品格」であり,ここには日本は「異常な国」であるべきであると述べられている.
昨今,総理大臣が「普通の国」になるべきであるとお題目のように唱えていたが,「異常な国」であったからこそ開国から明治維新を経て短期間に力を付け(それが故に欧米列強に台頭を恐れられ,圧力をかけられて数度の戦争と先の敗戦に至るわけである),また,先の敗戦から目を見張るばかりの復興を遂げたと結論づけられている.
日本は模倣が得意という認識は誤りで,作り変えて取り込むというのが独創的(=異常)とも言えるのだそうである.

2008年3月 6日

荒蝦夷・熊谷達也著

文庫化を待っていた作品である.

三十八年戦争の発端となる伊治公呰麻呂が主人公で,クライマックスはいわゆる“呰麻呂の乱”である.
熊谷達也氏の前作としてはその三十八年戦争の中心人物となる大墓公阿弖流為を主人公に据えた「まほろばの疾風」があったが,作品としてはこの「荒蝦夷」と関連は全くない.
その辺りが,同時代を描いた高橋克彦氏の「火怨」「風の陣」に比べて見劣りがするように思う.俘囚,蝦夷の生活様式については熊谷氏のほうがそれらしいのかも知れないが.
宮本武蔵を題材にしても吉川英治とその他ではまったく描きようが違うことと似ている.実際のところ同時代に生きたからといって,沢庵や本阿弥光悦と交流があったかどうかは信憑性に薄いと考え
ている.
作家によって各々どう解釈して創作を進めるかということであり,仮説がこうだったら物語はこう進むということであらすじが決まるのだろう.

史料の上では,この伊治呰麻呂はまったく謎の人物である.乱を起こしたあとの消息が全く知れない.
俘囚長で多賀城の「夷を以て夷を制す」政策に利用されていたこと,乱の際に,按擦使・紀広純,陸奥国造・道嶋大楯を殺害することくらいしかわからない.
史料にある,大楯が呰麻呂に対して蔑むような冗談を言ったようなことは本作には出てこない.
人物像としては,冷徹で残虐な策士で,かつ,民衆・兵には人望厚く慕われていることが,前半は遠田押人,後半は道嶋御楯の目を通して描かれる.
この辺りの時代の歴史小説を読むと必ず前後関係がわからなくなってしまうので,必ず高橋富雄氏などの論著を読んで史実上の前後関係を再確認しなければならなくなる.
しかし,現在以上に歴史学,考古学的に劇的な進展が期待はできそうにないので,このような歴史小説を読んで思いを馳せるよりほかないのだ.

2008年5月14日

ERIC CLAPTON THE AUTOBIOGRAPHY

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「エリック・クラプトン自伝」
Eric Claptonというアーティストを意識して聴くようになってこれまた20年である.
初めて聴いたのが『Back Trackin'』という2枚組のベスト盤である.はっきり言ってしまって最初は退屈だった.これが「ギターの神」と呼ばれる人の音楽なのか?と.
いくらおとなしくてもハイティーンの血気盛んな頃である.レイドバックサウンドよりもハードロックのほうに魅力を感じる.
まあ,いいところ,CREAMの「CROSS ROADS」止まり.なにしろ,ロックギターの系譜としてはEdward Van Halenに直接的に繋がっていく演奏である.
そんな印象だったのでまともに聴くのではなくBGM的に流していたら,じわじわと効いてきたのである.そうやってのめり込んでいった.
雑誌やムック本は除いても,彼の伝記本は,
「孤高のギタリスト/エリック・クラプトン」
「エリック・クラプトン・ストーリー(原題:SURVIVER)」
「エリック・クラプトン・コンプリート・クロニクル」
「エリック・クラプトンの軌跡」
「エリック・クラプトン/イン・ヒズ・オウン・ワーズ」
「エリック・クラプトン/レコーディング・セッション(原題:ERIC CLAPTON THE COMPLETE RECORDING SESSIONS)」
「エリック・クラプトン/スローハンド伝説(原題:Lost in The Blues)」
また,
「CRAEM/STRANGE BREW」
「名盤の裏側 デレク&ザ・ドミノス インサイド・ストーリー」
くらいは,これまで読んできた.
これらは,あくまで,第三者が著した本なので所詮は,本人へのインタビューが織り込まれたとしても外から見たことしか書けない.
しかし,今回は本人のペンによる本である.最も赤裸々で最も生々しい.

読み進めながらずっと思っていたのは,こんなデタラメな人間がいていいのかと言うことである.
ファンとして彼に興味を持ち続けている者としては,前述の伝記や雑誌記事等でだいたいどんな生い立ちでどんな人物で,というのは知っているつもりだった
が,それを軽く凌駕し,また,この人が大人になれたのは50歳を過ぎてからやっとだったのかということにも呆れた.
私ですら,呆れるのだから,『UNPLUGGED』や『PILGRIM』あたりから聴き始めた人などが,この本を読むと陰鬱な気分になるのではないだろうか.
よくぞ,ロックミュージシャンという職業があったものだと思う.完全に人間として破綻しているではないか.
それぞれの伝記を読むごとにショックに思っていたのは,好きな作品がグダグダの状態で創作されて録音されたことである.
例えば,映像作品として残っている『OLD GREY WHISTLE TEST(1977)』,これなどは,いかにもアルコール中毒まっただ中という印象を受ける表情で生彩を全く欠いているが,『THE ERIC CLAPTON CONCERT(1986)』は,それまででベストライブという評判だったし,私も少人数で気合いの入ったのびのびとした演奏が気に入っているのだが,このときですらアルコール中毒から脱していなかったと言うことである.
私がスタジオ盤で最も好きなのが,『MONEY AND CIGARETTES』である.地味だがノリの良い曲もある,少しカントリーっぽいイメージのアルバムである.しかし,これですら,かなりやっつけ仕事だったような書かれ方だった.
また,原文がそんなだったのか,翻訳が良くないのか,箇条書きのような文章であまり読みやすい文章とは言えなかった.

Eric Claptonという御仁,どうしようもない人物だが,そのどうしようもない人物の作品を20年以上に渡って,しかもプロデビュー時まで遡って好んで聴い
ている私のようなファンもどうしようもない人間なのだろう.

2010年10月 6日

風の陣(裂心篇)・高橋克彦著

前作風雲篇について書いたのが2007年9月のことだったので,3年を過ぎた.
とうとう,シリーズ完結篇の刊行である.
第一巻の立志篇の出版が1995年だったので15年である.立志篇の頃は,まだ就職前の大学院生だったのが,いまや職場で中堅となってしまっている.
大望篇と天命篇の間が長かったので,中途で忘れられて終わってしまったのかと続きの期待を半分あきらめていたこともあった.
1993年の大河ドラマ原作「炎立つ」に感銘を受けて,高橋克彦氏が描く,さらに時代を遡った物語を偶然に書店で見つけてしまって10年以上を経るとは思わなかった.
しかもその間に歴史時系列的には直後の「火怨」が後から始まったにもかかわらず先に完結し,順序が前後してしまっていた.

立志篇,大望篇,天命篇,風雲篇と道嶋嶋足を主人公に据え,主に都での政変が描かれてきたが,今回は伊治公呰麻呂(本作中では鮮麻呂と表記)を主人公に,彼が引き起こした,いわゆる宝亀の乱に至る物語としてある.
裂心篇の副題のとおり,全篇通して屈辱と怒りに満ちている.
嶋足も登場はするが,弓削道鏡の失脚以降に続日本紀等の史料にも記述が見当たらないためか,もはや活躍はない.
代わりに敵役として登場するのが,道嶋大楯である.史料には嶋足の同族であることしか記されていないが,物語では嶋足の異母弟で屈折した虚栄心と私欲の持ち主で嶋足の手にも負えないかのように描かれている.
呰麻呂という人物は,宝亀五(774)年から十一(780)年の宝亀の乱に関する記述にしか出てこないために,その前後がまったくわからない.
そのせいか,本篇は歴史小説というよりも史料をヒントにした9割5分まで創作といえるかもしれない.
読み終えてすぐに時代的には続編となる「火怨」の冒頭部分だけをすぐに読み返してみた.意外と多くオーバーラップさせてある.
また,鮮麻呂が決起してから紀広純と道嶋大楯の首級を挙げるまでの胆沢勢との呼応のくだりは,一言一句違わず,まったく同じ台詞・状況となっている.
(この辺りが,同じ題材を扱った熊谷達也著「荒蝦夷」「まほろばの疾風」と大きく異なるところである)
当然ながら,「風の陣」では伊治側から,「火怨」では阿弖流為を軸とした胆沢側からの表現となっている.

「炎立つ」の結末での吾妻鏡の記述を変えずに泰衡復権に成功したのが頭にあるので,残念ながら,読んでいて,少々,史料との対応が破綻しているように感じられた.
広純と大楯殺害の順が逆であり,また,その動機があくまで私怨によるものとすることで,朝廷の蝦夷征討の大義を失わせるというものであったが,続日本紀には伊治城での乱の数日後,多賀城までもが蝦夷たちによって掠奪・炎上させられたことが記されており,考古学的にもそれが実証されている.
これでは,鮮麻呂の想いが台無しである.そのため「火怨」には多賀城炎上が書かれているが,本篇では書かれなかった.

前までは,あまり気に留めていなかったが,『呰麻呂』の表記を変えてあるのが気になったので,調べてみた.
『呰』は,相手を口汚く罵るなどの意味で人名に用いる字としては好ましくない.史料は朝廷側の記述なので,おそらく,賊徒として貶めるための表記なのだろう.
大化改新に先立つクーデターで滅ぼされた蘇我氏の名前が記紀ともに全て獣の名前(馬子,蝦夷,入鹿)になっているのは,意図的に貶められているのだという説があり,それと同様と考えられる.

現在,奈良で平城遷都1300年祭が開催されているが,この「風の陣」で描かれた醜い権力闘争,政変,謀略,私欲の舞台がまさに平城京なのである.

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2013年5月30日

火怨・北の英雄アテルイ伝

NHK-BSで1月,同総合で4月に放送された全3時間の時代劇である.
録画してあったのをようやく見終えた.
当ブログをずっとお読みいただいている方には,私が高橋克彦氏作の東北歴史小説のファンであることをご存知であると思う.
東日本大震災復興への応援として,「火怨-北の耀星アテルイ-」がドラマ化されると聞いて期待もしたが,正直見終わって落胆のため息しか出なかった.
番組BBSを見てみるとそれなりに好評価も多いようだが,そういう方の書き振りを見るに原作を読んでいないように見受けられる.
私にとっては原作のスケール,読者の裏をかく演出をはじめ,あらゆることが不満である.

まずは,朝廷の陸奥に対する支配を強めようとする理由が薄弱であり,また逆に蝦夷が反抗する理由も描かれ方が薄弱である.
物語の事の発端である宝亀の乱に至る過程が単純に伊治呰麻呂が阿弖流為にほだされただけのように思える.
阿弖流為と母礼による蝦夷軍組織,周到な戦術,また,坂上田村麻呂の懐柔戦略の進め方などが全く説明不足である.
終末近くの蝦夷の長たちの離脱と朝廷への帰順も阿弖流為を見限ったかのようで,結局,人望がなかっただけのように見える.
呰麻呂も阿弖流為もあまり先のことを考えていなかったような印象しか受けない.
原作ではそうではない.田村麻呂の人物を見込み,蝦夷が生き残る方策として離脱させていったのである.
歴史的史料は『続日本紀』くらいしか文献がないのだから事実はわからない.しかし,原作を「火怨」とし,題名にもそう記してあるのだから原作の精神を垣間見せて欲しい.
出来上がったドラマは単にモチーフとして取り上げた全く別の物語であった.それならば「火怨」にしなくてもよかったのではないか.
原作にはなかったが,唯一,評価できるとすれば,製鉄・製刀に必要な木炭のために,山は伐られ,川は流出した金気(かなけ)で魚が死に,美しい故郷を守るために荒れてしまった矛盾に阿弖流為自身が気づいても見過ごしてしまった反省が描かれたことである.

NHKの製作なのだから,同じ高橋克彦作の1993年度の大河ドラマ「炎立つ」につながるような演出を期待していたのである.実際,「炎立つ」には精神的な背骨として阿弖流為が登場する.
平安時代末期を舞台とした「炎立つ」では,安倍氏・奥藤原氏の後ろ盾として,『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに登場する“金売り吉次”を中央で政争に敗れた物部氏の末裔としている.
奈良・平安時代初期を舞台とした「風の陣」「火怨」でも同様に蝦夷の後ろ盾として,軍用馬と黄金,製鉄の根拠として物部氏がある.
ドラマ化された「アテルイ伝」には物部氏は登場しない.ただ,陸奥馬の養育になぜか大伴氏が携わっていた.
物部氏に蝦夷の財力と技術の根拠を求めるのは偽書と結論されている「東日流外三郡誌」が下敷きになっていることを憚った結果なのか.

映像化するのならば,高橋崇氏や高橋富雄氏といった研究者の監修を得て,本当の意味の“大河”ドラマとして「風の陣」から「火怨」に至るまで,主人公を道嶋嶋足,伊治呰麻呂,阿弖流為と変えながら2,3年懸けて壮大にやってほしいものである

番組公式サイト

2014年8月 8日

高田郁著「銀二貫」

平成26年度第1四半期のNHK木曜時代劇で,番組宣伝で大坂の商家が舞台であることを知り,毎回欠かさず見ていた.
時代劇で大坂の町が舞台というのは非常に珍しいし,また,主人公が武士ではないので,チャンバラ,立ち回りがないのも珍しかった.
確かに時代劇としては,淡々としてダイナミズムに欠けるかもしれないが,人情劇として非常に面白く見入っていた.
歌舞伎で言うと,江戸の荒事,上方の和事といったところか.
大坂の商家の様子が知れるようなものといえば,身近には上方落語くらいしかないのである.
しかも,大坂の商家であれば船場が舞台というのが相場と思われるが,天満であるというのも少し変り種である.

テレビドラマで興味が出たので,原作小説も読んでみることにした.
普通は,ドラマの説明不足でわからなかったところが小説で氷解することが多いのだが,逆に原作小説のほうが淡白でドラマでは演出がかなり盛ってあったような気がする.
かといって,ドラマと同じような演出が原作でされていたら,くどいと感じたことだろう.

何よりも,勤め先が天満橋なのでなじみがあることも魅力のひとつに感じられた.
天満界隈が何度も大火に見舞われる描写がある.中には大阪天満宮が消失するような大火もある.
そのような火災の描写で大川のこちら側と向こう側で延焼するかしないかというようなこともあり.
毎日通っているところなので,風景が抵抗なく想像できてしまう.

心情,科白が当然ながら,なにわことばで記されているので,普段使っている言葉に近く,イントネーションもそのままで伝わってくる.
とても,読後感もさっぱりとすがすがしい.

妻いわく,同じ高田郁氏の「みをつくし料理帖」も民放でドラマ化されているが,少し見ただけでも陳腐すぎて納得感がまったく得られなかったということである.
「みをつくし料理帖」は江戸を舞台に上方生まれの女性料理人が活躍する話であるが,大阪で制作するべきだったのかもしれない.

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