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「火怨」と「まほろばの疾風」

「まほろばの疾風」(熊谷達也著)を読了した.
同じ阿弖流為(アテルイ)を主人公に据えた「火怨」(高橋克彦著)と比べると熱さは欠けるように感じた.
三十八年戦争の顛末を追うだけならば,史料を繙けばよい.
しかし,この物足りなさは何なのか?背景が希薄なような気がするのである.
私が少々気に入らないのは,蝦夷(えみし)=アイヌという前提で進みすぎなのではないか,と言う点である.
アイヌ文化は少なからず持っていただろうが,
人類学的にはヤマト民族と大きく変わらないのが蝦夷という存在であるというのが大方の見解となっている.
同じ蝦夷という文字であるが,エミシ≠エゾなのである.
阿弖流為の参謀的役割を務めた母礼(モレ)を単純に母の字を当てているからといって女性とするのも少々安直な気がした.
熊谷氏は,国家としての政治体制が確立していないが故に大和朝廷に破れたというスタンスを取っているが,
そのあやふやな原始的組織に対して海を隔てた渤海国が交渉相手としうるのかという疑問も残る.
また,朝廷の征東・征夷の発端となった,金の産出,機能的な刀剣,大柄で良質な軍用馬などなどの技術的根拠がないのである.
「火怨」では,これらの根拠を蘇我氏との政争に敗れて奥羽に逃れた物部氏の末裔に求めている.
それは,他の高橋氏の古代東北を舞台にした「炎立つ」「風の陣」も一貫して「東日流外三郡誌」を下敷きにしているからである.
「東日流外三郡誌」は偽書の烙印が押されており,全面的に肯定するわけにもいかないが,その精神は決して否定する物ではないと思う.
口頭伝承を近世になって文書化した物かもしれない.

そして,共通して描かれたのは,阿弖流為が最後まで貫いた蝦夷としての誇り,民衆への心遣いと敵将・坂上田村麻呂への信頼である.
物語には描かれていないが,阿弖流為と母礼の処刑の後,清水寺を蝦夷供養の拠り所としたことが田村麻呂の思いを表しているだろう.

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2005年1月25日 19:35に投稿されたエントリーのページです。

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