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2005年9月 アーカイブ

2005年9月 2日

Back Home

backhome.jpg
Eric Claptonの新譜である.もはや,私は義務感と惰性で購入してしまっている.

SMAPが愛知万博のイメージソングとして歌った「Say What You Will」のオリジナルが収録されている.
レコード作品としてのリリースがSMAPのほうが先だったのでオリジナル版という印象だが,
このアルバムのリリースが遅れに遅れたので本来はSMAPがECのカバーをしたというほうが正しい.
スタジオの帰りの車中で聴きながら納得がいかないので録り直しに録り直しを繰り返してリリースが遅れたというほどに力が入った作品だそうだが,
わずか1ヶ月後にCREAM再結成公演の音声と映像記録がリリースを控えているので,CREAMからギタリストとしてのECを注目し始めたファンとしては,
どうしても,そちらのほうに気が行ってしまう.
よく言えば,聴きやすい.悪く言えば,引っ掛かるような特徴がない作品である.というほどにギターの聴き所は期待できないと言っても過言ではない.


ごろつき(Reptile:2001年)の漂泊者(Journey Man:1989年,Pilgrim:1997年)がとうとう帰宅(Back Home)したか,ということである.
一曲目の「So Tired」では,3人の娘の子育てに追われる日常を,嬉しそうになぜかダイナミックに歌っている.
「Tears in Heaven」の題材になった,その子の誕生月が8月なので喜んで『One More Car, One More Rider(2001年のライヴ盤に再利用)』を
『August(1986年)』と換えてまでリリースしたのに,同居生活して父親の役割を果たせず,それが結果的にあの悲劇につながってしまった男が,である.
そもそもこのECという人は,自分のプライベートを歌にする以外に歌詞のネタがない人である.
Jimmy PageやJeff Beckと違って,なまじ自ら歌えるがために第三者によっていいように自身を切り売りさせられるというか….
恐らくは,DELEK & DOMINOSの『LAYLA and Other Assorted Love Songs(1970年)』に始まるのだろう.
『461 Ocean Boulevard(1974年)』の「Let It Grow」もそう.とにかく枚挙にいとまがない.
もちろん「Tears in Heaven」もそうだが,もっとも酷いのは,『Money & Cigaretts(1983年)』の「The Shape You are In」ではないだろうか.
自分自身のことならともかく,当時の妻,Patty (もちろん「Layla」のモデル)がアル中になっていることを歌っているのである.
しかも,曲自体は,Albert Leeとのギターバトルが聴き所という,ノリのいい曲なのがなんと皮肉なことか.

2005年9月 5日

総選挙に思う

前回の総選挙のときにも同じ題でほぼ同じ内容をつれづれ臭に書いた覚えがある.

選挙はともかく,最高裁裁判官国民審査である.
過去,これで罷免された裁判官はいないそうである.
議員の選挙に関しては,記入ブースの上に一覧がある.そして,報道や政見放送などメディアにも主義主張は周知されるので聞く気が有れば情報は入ってくる.
しかし,裁判官の審査に関しては,能動的に取りにいかねば情報は入らない.
国民審査も選挙と同様に,記入ブースの上に担当した裁判の一覧を掲示すべきである.あるいは投票整理券と同時に郵送すべきである.
最高裁であるということから,形式上国民の信を問うということにはなっているが,まさに形だけで十分に機能しているとはお世辞にもいえない.
そういうことへの抗議の意味もあり,筆頭に示されている裁判官に対してペケ印が多く付く傾向があるそうなので,不公平(?)がないように,私は全てにペケ印をつけて投票箱に投函する.


ついでに選挙のことについても述べておく.
「誰にも票を入れる気がしなくても棄権するよりも白紙投票を」
と言う方もいらっしゃるが,私はもう一歩進めたい.
小選挙区には「該当者なし」,比例区には「該当政党なし」と書くのである.
まさか,カンボジアやあるいはイラクやアフガンではあるまいし,日本で選挙の際の不正が極端にあるとは…,とは思いつつも現に不在者投票での票数操作が数年前にあった.
だから白紙のままだと手を加えられる恐れがあるのである.
自分の考えと正反対のことに利用されることは絶対に避けたい.ロクな候補者,政党がないことに対する非難の意味もある.

投票を促す総務省のTVCMにも一言.
「あなたの一票には力がある」と言われても「6割が死票になる小選挙区制の下でそのスローガンは空しく響く」

2005年9月 6日

おばはんの安全意識

幼児の96%ヘルメットなし 自転車同乗の負傷事故

 幼児を自転車に同乗させたことがある保護者の95・4%が幼児用ヘルメットを着用させず、13・1%が転倒などで幼児の負傷を経験していたことが、全日本交通安全協会のアンケートで6日までに分かった。負傷した幼児の96・3%はヘルメットを着けていなかった。
 一方で、幼児のヘルメット着用義務化について保護者の過半数が「なじまない」などと消極的な回答をし、後を絶たない“ママチャリ”事故の実際と安全意識の乖離(かいり)が浮き彫りになった。
 警察庁は「保護者への安全教育の充実とヘルメット着用の啓発活動を推進する」としている。
 調査は2~3月に、全国の幼稚園や保育所計80カ所に通う幼児の保護者を対象に実施。7194人が回答した。
(共同通信) - 9月6日7時56分更新

ところでさすべえをご存知だろうか.
大阪のおばはん御用達の自転車外出時の必需品となっている.
商品の目的は,傘を差しても片手運転にならないという安全グッズということ重宝されているようであるが,自動車で商店街を運転する者にとってはこれほど危険を誘発するものは無いと考えている.
片手運転は確かに危険である.しかし,手で傘を持っていれば,よけることができるものが,ハンドルに傘が固定されているので,接触したり引っ掛かったりするとそのまま転倒してしまうのである.
特に夏季には,さすべえで日傘を差して我が物顔で走る傍若無人なおばはんで溢れ返る.
自動車よりは自転車のほうが交通弱者なので事故が発生すると自動車側に責任が負わされる.自転車が明らかなる危険行為を堂々と行っているのにもかかわらず.
死亡事故にまでは発展していなかったり届けるほども無い接触程度の事故は,かなり多発しているはずである.
警察庁や国土交通省で,“さすべえ”について調査・実験の上,禁止して欲しいものである.

おばはんとは,年齢で定義されるものではない.行動パターンである.

2005年9月 8日

BIG GUNS : THE VERY BEST OF RORY GALLAGHER

bigguns.jpg
TOWER RECORDのポイントが満杯(3000円分サービス)になったので,どれに使おうかと思っていた.
最近は,海外物は日本盤のフルアルバムでも2500円程度なので使い切れない.かと言ってあまり聴きたくもないものを抱き合わせで買うのももったいない.
国内物では,9/7には押尾コータローの新作が出るので,もともとはそれに使おうと思っていたのだが,現在,インディ2作とメジャー3作,映像2作品を所有しており,ひとまずは置いておこうとも考えていた.生ギターのソロ・インストなので,サウンドバリエーションが限られるため少し飽きつつある.
あるいは,CREAM再結成公演記録が出るまで使わずに置いておくのも一つだと思っていた.
そこへちょうど8月下旬にRory GallagherのTaste時代からのベスト盤がリリースになっていた.2枚組24曲収録SACDハイブリッド・ディスクで税込3360円.ちょうどいい価格である.

SACD(Super Audio Compact Disc)のソフトはこれが初めてである.
DVD-Audioのソフトは,LED ZEPPELINのライヴ盤『HOW THE WEST WAS WON』を所有している.これは,一般的にはAudio-CDの3枚組に対してDVD-Audioでは2枚組である.
ハードをDVDユニバーサル・プレイヤーにしておいてよかったと思う.デジタル光ディスクの音楽ソフトであればCD-DAであろうがDVD-AであろうがSACDであろうが,どのフォーマットでも再生できる.

話をもどしてRory Gallagherである.
以前より,ずっとRory Gallagherは聴いてみたいと思いながら,キャリアの長い人であるしどこから聴いてよいか分からず,手を出しかねていた.
アイリッシュ特有のメロディラインが特徴的と言われているが,サウンドは典型的ブリティッシュよりも乾いた感じのブルーズ・ロックであり,R&Rで格好良い.
格好良いのが分かっていながら,なかなか聴けなかったのである.やはり,なにかのきっかけというのは必要である.
ライナーノーツに書かれている,かつてのインタビューの記述に共感を覚えた.

100ワットのスタックアンプに惹かれたことは一度もないね.(中略)小さなコンボアンプのボリュームを8か9くらいまで上げて,椅子から飛び上がって演奏するほうを選ぶよ.(中略)あくまでも好きなのはギターそのものだから,この楽器の可能性を最大限に引き出したいんだ.(後略)
俺はアンプをオーヴァードライヴさせるほうが好きだし,(中略)いろんなエフェクトをあれこれ使って退屈なギター・ブレイクを演奏する連中をずいぶん見たよ.(中略)俺はありのままのギターが好きだ.
原則として俺はパフォーマンスから人間的なファクターが消されてしまわないように,テクノロジーをしっかり自分で制御するように気をつけている.

そしてRory Gallagherと言えば,今回のアルバムジャケットにもなっている1961年式のフェンダー・ストラトキャスターである.
もともとサンバースト・フィニッシュのはずだが塗装が剥げてボロボロである.
Eric Claptonのかつての黒のストラトキャスター“BLACKIE”やStevie Ray Vaughanのストラトキャスター“ナンバーワン”など,使い込まれたギターというのはなんとも迫力がある.
この3人に関しては,ギターの姿さえあれば本人の姿がなくてもよいくらいにギターはその人の分身であるといっても過言ではない.
ノーマルなモデルのはずが,その人の個性が楽器に強烈に焼き付けられて後にシグニチュア・モデルになるのがなんともカッコいい.
塗装の剥れ具合まで再現するのはやり過ぎだとは思うが.

2005年9月12日

良くも悪くも

日本人は基本的に独裁者を嫌う.しかし,社会の変革期には,時代の要請として必要とされる.
また,話し合い絶対主義であり横並びを良しとする.国民性の根本から談合体質なのである.また,"御上の意向"に弱い.
朝廷の合議制然り,鎌倉・室町幕府の侍所然り,江戸幕府の老中然りである.
天皇あるいは執権や将軍の強権発動は,平常時は存在しない.
強権発動を辞さない指導者が存在し得たのは,制度疲労の極致に達したときである.後醍醐天皇,徳川吉宗,井伊直弼などが該当する.
(実は,昭和の第二次大戦時にすら該当人物はいない)
どれも最初は歓迎されるが,改革が成功したとしても懐刀的な部下以外には見捨てられ,英雄となることはないのが日本の社会である.
良政であれば権力が一人に集中する独裁自体は決して悪ではないと考えるが,日本人は良政を執っていても嫌う傾向がある.
市民革命も起こったことはなく,せいぜい一揆か強訴である.安保闘争以後は,それらしきものも起こらない.

さて,今回の総選挙であるが,ご存知のように自民党内の派閥を嫌い,国鉄・電電公社の民営化から取り残された郵政に執着した小泉純一郎の勝利(果たして与党の勝利と言い切れるか?)に終わった.
衆議院の解散から自民党公認候補の擁立に至るまで,独裁者の印象がどうしてもついて回る.
“独裁者”と,反対派や野党,マスコミがレッテルを貼って非難しようとも,国民はそんな人を総裁として頂く自民党を与党として選んだ.
時代の要請と言うほかに言い様が無い.何もかも閉塞状態になり,この人以外に託しようがないと思ったのだろう.
頭に置いておかねばならないのは,選挙戦中,与党は郵政民営化以外には何も言っていなかったことである.
各野党は,それに引き摺り込まれまいと,あれこれ言い過ぎ,印象が希薄になってまんまと術中にはまってしまったことは否めない.
おそらく,自民党に票を投じた人々は,「こんなはずでは…」と後々思うのではないだろうか.
連立与党の勝利ではない根拠は,自民党が単独過半数を確保でき公明党が微減したことである.投票率が上がったことも要因としては大きい.
公明党は,開票後のコメントで恩着せがましいことばかり言っている.
せっかく単独過半数なのだから議席数2/3は諦めて自民党には公明党との連立政権を早々に解消して欲しいものである.

私自身がどういう票を投じたかについては明かさない.国民審査は宣言どおり全員ペケである.

2005年9月14日

サムライ

昨年は劇場映画で武士をテーマにした作品が海外でも話題を集めた.
武士のことは海外でもサムライと呼ばれて浸透している.
サムライとはどのようなイメージでとらえられているのだろうか.
日本文化のダンディズムの代表でストイックな一匹狼だったりするのだろうか.何がきっかけなのだろう.黒澤明の映画だろうか.
この外国人がとらえるサムライというのは,どうも間違えていて,それにつられて日本人も正しく理解していないのではないだろうか.
サムライは漢字で書くと侍である.
この字は現在も使う.「人をらす」とか,従と呼ばれる人たちが宮内庁の職員の中にもいる.
侍とは,“さぶらう”が名詞化したもので「そばにいる人」という意味である.侍女をサムライ・レディなどとは言わないだろう.
つまり,サムライを英語的に解釈するとBody Guardである.決して一匹狼ではない.貴族に付添う“武装したお付きの人”である.
武家政権は,平安時代末期から明治維新前まで約700年間あったわけだが,武士が政治の実権を握っても決して朝廷を滅ぼすことはなく,権力の二重構造が続いた.
しかも,朝廷に常備軍がないことにつけこんだ,律令にはない非合法の軍事政権,それが幕府である.
そもそも鎌倉幕府は武士の組合が圧力団体化し,そのまま政治を執ったようなものである.
このような政治の二重構造は日本でのみ見られた現象である.あくまで武士は朝廷を守るものという不文律の大原則があったためである.
平氏と豊臣氏の失敗は朝廷そのものに入ろうとしたことである.

武士道倫理を説いたと言われる,鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』に「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があるのは有名である.
“武人”として捉えるのであれば,“さむらい”よりも武士・武者の和語表現“もののふ”という言葉に,私は,誇り・プライドを含んだものを感じる.

NHK大河ドラマでいくつか印象に残っている台詞がある.
『炎(ほむら)立つ・第一部』で,奥六郡の実質的支配者・安倍氏討伐(前九年の合戦)のための朝廷軍として参戦していたが義弟平永衡が源頼義に謀殺されたことを知り,妻の親元安倍氏側に寝返る際の藤原経清の言葉.
「今の国を国とは思わん.すべては奥六郡の黄金に目が眩んだ欲の亡者のなせる戦じゃ.その手先となって死ぬるは,もののふの本懐にあらず.
その国のために命など捨ててどうする.まずは,妻や子のため親のためにもののふとして生きるのだ.男として生きるのだ.」
また,安倍軍が大勝した黄海(きのみ)の戦で,安倍軍の姿に身をやつして敗走するかつての部下に経清がかけた言葉.
もののふにとって,義のない戦ほど切ないものはない.」
『八代将軍吉宗』で,紀伊藩財政建直しのために質素倹約を旨とし藩主自ら率先垂範して冬でも木綿の着物で通す紀伊吉宗が将軍綱吉に寒くないかと問われて切った見栄.
「吉宗はもののふにござりますれば」

実際のところ,外国人には“もののふ”は発音しにくいだろうとは思うが.

物部と もののふ は語源としては同根だそうである.

苗字と姓

これにまつわるテレビ番組が放送され,前半だけ(NHK「ためしてガッテン」のテーマが舞茸だったからである)だが興味深く見ていた.
苗字の起源についても説明されていたが,最も根幹の部分が説明されていないような気がした.
標題に上げた“苗字”と“姓”の違いについてである.恐らくは姓について詳しく取り上げると身分差別の問題が生じてくることが懸念されるからであろう.
現在,日本人は天皇家を除いて苗字を名乗っている.
大雑把に言ってしまえば,苗字は通称で氏・姓は血統(あるいは古代に豪族が朝廷から与えられた役職)である.
ということは,本来は姓と苗字を持っている人と苗字しか持たない人の二通りがあると思われる.
また,江戸期には苗字を名乗ることが禁じられていただけで,実は苗字を持っていて明治期に堂々と名乗ることができるようになった例もあるだろう.
私の家系は,江戸時代でも苗字を名乗ることは許されていたが,恐らく姓は持っていないと思われる.しかも当時と現在とでは読みが違うのではないかとも思う.
国民全て苗字を名乗ることが義務付けられた明治時代に苗字と姓の違いを明確にしなかったことが原因である.
すなわち,“佐藤”“加藤”“伊藤”であるからといって必ずしも摂関藤原家と同根の血筋とは限らないということである.
一族郎党が主人にあやかって明治期に拝借したものかもしれない.
例えば,現在も残る家柄である,鷹司家や冷泉家の姓は藤原である.しかし,明治以降の戸籍上は藤原ではない.
今となっては,ただ単にそれだけのことである.
しかし,古代や中世・近世ではそうはいかない.
摂政・関白は藤原氏でなければならなかったし,鎌倉幕府成立後,将軍は源氏でなければならなかった.
足利氏は,八幡太郎義家を祖としているため源氏の血筋なのははっきりしているが,徳川(松平)氏が新田氏(足利氏と同じ源義家が祖)を祖としたのは,将軍宣下のためにでっち上げたものと言われている.
羽柴秀吉は,藤原姓を金で買い関白太政大臣の地位を手に入れた.
江戸幕府成立直後に,伊達政宗が娘婿・松平忠輝を擁してクーデターを企てていたといわれていることもこれらに根ざしている.
伊達氏は,藤原姓の中村朝宗が源頼朝の奥羽遠征に参加した際の論功行賞で出羽国伊達郡を賜ったことが起源である.そして松平氏は前述のとおり源氏を名乗っていた.
すなわち,武家の頂点に立ったところで政宗への将軍宣下はありえないことが明白だったので,忠輝を将軍として戴き自分は関白として政権を取る野望を抱いていたということである.
“氏素性”とはこういうことである.

最も興味深いのが,志半ばで倒れた織田信長はこの血統という不文律をどう解決あるいは打破するつもりだったのだろうか,ということである.

2005年9月16日

“改革”の結果がどう現れるか

『逆説の日本史 第9巻 戦国野望編』文庫版P423L13~P426L5に,今回の総選挙での小泉純一郎の勝因(重ねて言うが自民党の勝利ではないと思っている)と民主党の敗因が既に書かれていた.
4年前の週刊誌の連載がハードカバー単行本を経て文庫版として出版されたその数ヵ月後に総選挙の結果として現れるこの符合に驚いている.
引用するには長いので,是非,実際に読んでいただきたい.
既に4年前にこのことを指摘していた井沢元彦氏,何もできなかった民主党,派閥を有名無実にして国民を動かした小泉純一郎氏.
実際には,指摘として書かれている内容は目新しいものではない.その事実を動かした者と動かせなかった者の差である.そしてイメージ戦略.
小泉氏が信長に心酔するようになったのは,いつ頃からかは知らないが,もし,ここ10年以内ならば井沢氏の影響だろうか.
しかも,戦国武将としてではなく改革断行者として,であるので本物であろう.戦国武将としてなら単なるファンである.
本当に改革が進んでいるのかという疑問は,ひとまず置く.そして,早々の比叡山焼討ち(公明党の与党からの切捨て)を期待している.
この『逆説の日本史』シリーズ本筋は“逆説”なので日本史エンタテイメントとして楽しく読んでいるのがいいと思うが,現代との対比が非常に的を射ており,本当に興味深い.
時間とともに,この“逆説”が“通説”になっていくのも痛快である.

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