私のスタンス
今まで,あまりかつての「つれづれ臭」やこのブログには,政治の話やイデオロギーについては意図的に書いてこなかった.
興味がないのではなく,かなり興味があって議論し始めると止まらないくらいなのだが,わざと避けてきたのである.
しかし,一度,自分でも自らのスタンスを整理し再確認するために文章の形に書いておきたいと思う.
まず,私は広義で言うと右翼だと思う.
天皇崇拝ということで言うとかなり希薄だとは思うが,民族主義的思想は間違いなく持っていると思う.
“愛国心”というと大上段に構えすぎだし,意味合いがかなり異なってしまうのであるが,自分が日本人であることについては大切に思いたいのである.
これは,かねてから主張してきたが郷土愛と同根である.
人類平等の名の下に共産主義者が自国の伝統文化を否定し禁止するのはもってのほかだと考える.
誤解を恐れずに言うならば,間違いなく「日本は神の国」である.
アメリカ合衆国のような移民から成立した国は別として,国の成立過程の神話が存在する国はすべて神の国であると言える.
次に私は改憲論者である.
日米安保に反対する政党が,なぜ,第二次大戦後に日本を占領していたGHQが作成した憲法を守ろうとするのかが理解できなかったが,それが最近になってようやく分かった.
しかも,第九条だけを頑なに,なぜことさらに守ろうとするのか.
日本を占領下に置いていた頃は,合衆国もレッドパーチ以前だったので共産主義者がたくさんいた.GHQもご多分に漏れず,である.
そのGHQの中の共産主義勢力が起案したのが日本国憲法だったのである.だからアメリカ人が作ったにもかかわらず,そのことを現在の合衆国国民は知らない.
要するに,親分が作ったモノを子分が守っているだけである.財閥解体や農地改革で花を持たせてもらった恩義もあるのかも知れない.
日米安保は,レッドパーチ以後なので共産主義者を駆逐した敵しか残っていないのが合衆国の姿であるという認識なので反対していただけである.
自衛隊は,間違いなく軍備である.そして,現状では絶対に違憲の存在である.しかし,誰もが必要であるとは感じているだろう.
必要だと思うならば,存在を認めなければならない.存在を認めるためには,改憲するしかない.
領空侵犯,領海侵犯した他国の航空機や船舶を追い払うポーズしかできないのは,情けない話である.
誰だって泥棒に入られたら,話し合いでお引き取り願うなど馬鹿げたことはしないで撃退するのが普通だろう.
泥棒に対して話し合いを持ちかけたり,被害にあった後に警察に通報することしかできないという,憲法第九条が足かせになっている今の状態なのである.
戦後問題についての認識
もともと激烈を極めた日露戦争における戦死者を祀るために創設された靖国神社を,帝国憲法に代わる信教の自由を謳った現行憲法下においても流用しようとするのが間違いである.
なぜ,周辺諸外国が不快感を示すのかという理由が場合によっては明らかに言われ始めたのもここ5~6年のことである.
A級戦犯が合祀されているなどとは,それ以前にはどこの報道機関も通常のニュースでは言ってこなかった.
報道されるのは,国会議員や閣僚が参拝したということと周辺諸外国が抗議しているということばかり.
裁き方に問題があったにせよ,戦争犯罪者として断罪された者を神としているような形をとっていることが問題にされているはずなのに,それに対する説明が全くない.
戦犯合祀を無いことにして話すものだから,周辺諸外国ともまったく話がかみ合わないし,日本国民も騙されたままである.
だから,かつて「型式」と題して書いたときの結びのように“臭いものに蓋”で“片手落ち”だというのである.
しかし,自国民を戦車で轢き殺したり,少数民族を弾圧する政府を持つ国に,誇張した被害を60年以上経ってもなお申告して欲しくはない.
ただ,南京大虐殺や従軍慰安婦問題については,よく分からない.結論が見いだせないのである.
父親(1939年生)が幼少の頃に,大陸から復員してきた近所の人々が自慢話で何人殺ったとか犯ったとか話しているのを実際に耳にしたというのである.
それを言われると,書物から知識を得た私には反論のしようがない.
原子爆弾という新兵器をもって30万人を死に至らしめることがようやく可能だったのに,人力で40万人を殺すことは不可能であるという反論は空を切ってしまう.
ことの大小ではない.これだけは歯がゆい.
いつになったら,歴史学的に決着するのだろうか.
いつまでも中華思想に囚われた国にとって,日華事変もあくまで“倭寇”の一環であるという認識で,日本とは,いつまで経っても“倭国”なのだろう.
“東夷の倭人”ごときに蹂躙されたという屈辱と,倭人の主張など聞くに値しないという嘲りを政治に利用しているとしか思えない.