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パターンを打ち破って欲しい

本日より2005年のNHK大河ドラマ「義経」が開始となるが,これまで何度か書いてきたとおり,私は奥州藤原氏にシンパシーを感じているので,
源義経が描かれる際にはその最期で必ずと言ってよいほど四代泰衡が悪者にされてしまうところが気に入らない.義経北行伝説を支持したいほどである.
宮尾登美子氏の原作本は読んでいないので紋切り型のことも言えないが,吾妻鏡の記述に沿っていれば今までと同様の描き方になるのは必至である.

義経北行伝説によって産み落とされた史跡も多々あるのである.義顕(義経)一行に風呂を貸したといういわれのある“風呂”家や地元では“判官”さんと呼ばれている箱石家本家など逃亡の道すがら立ち寄った故事にちなんだ民家が多数ある.
渡島(北海道)から大陸に渡ってチンギス ハンとして活躍したなどというのは荒唐無稽過ぎるにしても少なくとも津軽海峡までは辿り付いたのではないかと思いたい.
何故なら,三厩と竜飛崎という地名がそれである.
竜飛崎というのは義顕が竜馬(西洋のペガススのようなもの?)に乗り渡島に渡ったことから付いた地名であると言われているからである.
そしてその竜馬の厩があったので三厩.
そこまでは,点在しているわけではなく時系列に非常に系統だった旅程なのである.

奥州藤原四代泰衡が鎌倉から義顕の身柄あるいは首級を催促されても,のらくらとしていたのはこの時間稼ぎだったのではないか.
鎌倉に時代の流れが味方し,それに抗うことは出来ないことを既に悟っていたのである.
何より,衣川で討ち取られたとされた義顕の首級は,頼朝の首実検を経ずに海に打ち棄てられているのである.
酒漬けで運ばれたとはいえ,焼け焦げた上に腐乱が激しく確認できなくなる夏季を選んだのが泰衡なのではないか.
鎌倉も平泉もそれが義顕の首級であろうがなかろうがどうでも良い,単なる駆け引きのためのポーズに過ぎなかったのではないだろうか.
もはや,いつでも攻め入って来いという泰衡から頼朝への合図だったのかもしれない.

とまあ,吾妻鏡の記述どおりでもこのくらいの解釈はできるはずなのである.
庶子とはいえ武勇に秀でた長男の国衡をさしおいて平泉の御館(みたち)に選ばれたのが泰衡である.
一般的に描かれてきたような腰抜けではあるまい.

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2005年1月 9日 18:52に投稿されたエントリーのページです。

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